死と、死の向こう側

昨日、友人とのやり取りの中で、自分の意識が、死と、死の向こう側にフォーカスしているのを感じた。常に自分の半分が”あちら側”にいるみたいだ。 今年の春に知人が他界した。彼女が昨年秋から入院していたことを、わたしは知らなかった。彼女が亡くなったことを知る前日、濃い緑の山に囲まれた静かな場所で、久しぶりに会う知人女性(顔は見えなかった)を古い乗り合いバスに乗せて案内する夢を見た。夢の中のわたしは、その場所をよく知っているようだった。 アマツバメたちの群れがぐるぐる飛び回るのを毎日眺めているうちに、自分がどういう状態にあれば彼らが接近してくるのかが感覚的に掴めてきた。言葉にするなら、ただそこに在るだけの状態だ。言ってしまえば当たり前のことではあるけれど。母との残された時間においても、この状態を意識していこう。…

帰るところ

「僕を殺してください」と言ったあの人も、「私を生んでください」と言ったあの人も、ただ帰りたかったんだろう。みんな、みんな、帰りたいだけ。でも、帰る場所がわからなくなっている。どこだったか忘れてしまって、すっかり帰れなくなっている。 わたしだってそうだった。ずっと、ずっと、帰りたいのに、帰る場所がどこにもなかった。どこかにあるものだと信じて、えんえんと探し続けていた。誰かの中に、社会の中に、世界の中に、きっとあると思っていた。でも、どこにもなかった。 たぶん、ずっと空を見ていればいいんじゃないかな。えんえんと星を見ていればいいんじゃないかな。自分の底が抜けるまで、ひたすらひたすら見ればいい。ぜんぶこぼれてしまうまで。わたしが消えてしまうまで。どこでもなくて、なんにもないところ。どこでもあって、なんにだってなれるところ。おかえりなさい。…

アマツバメ

太陽が地平に近づいたら アマツバメたちの宴がはじまる 疾風のようにやってきて 瞬く間に彼方へと翔る たちまちのうちに高く昇って くるくる回って呼んでいる ぴぃぃぃぃ ぴぃぃぃぃぃ ぴぃぃぃぃ ぴぃぃぃぃぃ おなかの中が熱くなって 躰がぶるぶる震えだす 輪郭がさらさら崩れ落ちて 風の中へ消えてしまう いつの間にか龍になっている アマツバメたちが鼻先で遊んでいる ああそうだったと思い出したら アークトゥルスが光りはじめた…

ホロスコープとタロットについて

ホロスコープとは「恋愛」や「仕事」といった社会生活のほんの一部を ”占う” ためだけのものではない。ホロスコープチャートにあるすべての天体は、その人の中にあるさまざまな要素を示唆している。そういう観点からすれば、ホロスコープとは、自分の中にあるすべての天体=すべての要素を過不足なく生きるための地図のようなものだ。そして、社会における自己実現を通して、より大きな自己へ向かうための指針にもなる。 たとえば太陽や月しか見ないのは、ホロスコープを無理やり小さな枠に押し込めて歪めるようなものだ。それはホロスコープへの冒涜だとすら思う。当然ながら、ホロスコープとは「信じる、信じない」というものでもない。チャートを通して自分を客観的に認識し、自己想起していくために活用できれば、ホロスコープはすばらしいツールとなる。 タロットカードもまた然りだ。22枚の大アルカナはひと連なりの物語であり、それは、人間や社会、世界の移り変わりを示唆する。つまり、タロットカードもまた、ただ ”運勢” を ”占う” ためだけのものではない。目の前に現れるカードは鏡のように、その人物の状態と状況、さらにはシャドーをも映し…

まず何よりも自分自身であるという実感

友人との会話の中で、祖父が晩年に自分の娘(わたしの母)を「おかあさん」と呼んでいたことを思い出した。祖父には、たとえば幼少期に実の母親に思う存分甘えられなかった等の影響があったのだろうとは思うが、それと同時に、個よりも先に立場や役割がある(むしろ、それしかない)日本社会のパターンを実感した。 立場や役割という鋳型と自分が同一化している上に、相手を名前ではなく役割で呼ぶ習慣があるので、自己同一化がひたすら強化されるのが日本社会のシステムだ。たとえば、わたしの母が「わたしは、誰かの娘である前に、母である前に、女である前に、日本人である前に、まず、わたし自身である」と実感できていたら、状況は違っていただろう。 わたしは、「チーム内のお母さん」とか「このグループの父親役」というような表現にも違和感を覚える。そういう表現を目にするたびに、日本(語)社会には個という概念がないのだなと感じる。役割や立場が個を侵食している。「日本人には親がいない、物理的にはいるのにいない、孤児みたいな心を抱えた人が大勢いる」という友人の言葉は腑に落ちる。…

河童

池の周りに河童が数匹 何をしているかしらないが みなめいめいに働いている 河童の躰には贅肉がなく その動きには迷いがない 池の向こうから男が一人 釣竿を肩にかけている 河童がすばやく男を捕らえ 池の中へ引きずり込む 男は声すら上げられない 完璧だった 一瞬だった 天晴だった 恐ろしかった 男の体は河童に喰われ 河童を作る材料になる 河童になる 河童になる…

罪人

木で組まれた簡素な小屋で 男が最後の飯を待っている どんな罪を犯したのか これから死ぬことになっている 料理係は浅黒い肌の女 がっしりと豊満な体つき いとも長閑やかな動きで 四角い膳に飯を載せる 小屋の中には骸骨が一体 過去に処刑された者らしい 男は骸骨に見つからぬよう 柱に隠れて食わねばならない 熱帯樹の枝の上では 極楽鳥が下界を見ている 骸骨が飯の匂いを嗅ぎ かたかたぎこちなく動いている 女はまるで平気な顔で 慣れた手つきで飯を運ぶ 男も肚の据わった素振りで 粛々と匙を口へ運ぶ 鳥が啼く 骸骨が笑う 雨が降る 慈悲が降る…

カノープス

気づいたら川沿いの道を歩いていた ゆったりと流れる大きな川は濁った青緑色 向こう岸には深緑の森が広がっている 誰もいない とても静かだ ぽつんと小さな魚屋があるのを見つけた 陽はまだ高いがもう店じまいをしている 発泡スチロールの上に置かれたホタテ貝 乳白色の立派な貝柱に引き寄せられる まだホタテ貝はありますかと尋ねた 水を撒いていた女性が無言でうなずく 六つ、七つ、いや、九つくださいとお願いする きっとそのまま刺身で食べるだろう 九つのホタテ貝をぶら下げて歩いた 視線の先でカーブを描く白いガードレール 川は無言でゆっくりのたうっている 誰にも会わない とても静かだ どこへ向かっているわけでもなかった 午後の空気が浅葱色に染まっていく 川を渡るという声が聞こえる 鉄塔がそびえる角を曲がることにする 気づいたら視点が上昇しはじめた 一瞬で高く昇って鳥のように世界を見下ろす どうやらカノープスに乗ったらしい 舟で九つのホタテ貝を食べよう…