植物には動物の存在が必要なのだと夢の中で教わる

5年前の今日に見た夢を、Facebookが思い出させてくれた。 わたしは、古い木造家屋の縁側で、隣に座る人から話を聞いていた。その人はわたしに、植物の育成には動物の存在が必要なのだと言った。植物だけが隔離された土ではなく、様々な動物が関わる土で育つ方が、植物のエッセンスが増すらしい。動物の皮脂や汗、垢、皮膚や爪の破片など(夢の中では山羊や牛の頭と耳がクローズアップされていた)が土に落ち、それらが情報として植物に伝わるのだと教わった。 バイオダイナミック農法で作られる調合剤には、牛の角や頭蓋骨、小腸や腸間膜などが用いられるそうだ。夢の中ではそういった詳しい話はなく、ただ、四足動物の頭部からは特に重要な情報が土と植物に行き渡るとだけ教えてもらった。 温かい日差しの中で、外の景色を眺めながら、そんな話を聞いているのはとても心地よかった。そばには大きな黒猫がねそべっていて、尻尾がぱたんぱたんとわたしの膝を繰り返し叩いていた。周囲には農場と牧場があり、牛や山羊たちがのんびりと草を食んでいた。…

「I=わたし」という主語を用いて考え、話す訓練と習慣化

現在のパートナーと共に過ごしはじめた当初、彼から「それで、あなたはどうしたいの?」と頻繁に問われた。そこで気づいたのは、まさにこのツイートに書かれていること(=日本語だと主語を使って思考していないこと)だ。 掘り下げると、わたしは「日本語社会の中で、日本語を使って生活しているうちに、無意識に習慣化されてしまっていたプログラム(癖)に気づいた」わけだ。「わたし」という主語を使わない「癖」は、自分の感情や感覚を表明するよりも、相手や周囲の思い(という思いこみ)を優先する忖度プログラムだった。 しかし、英語を共通語とするパートナーとの間では、「わたし」という主語を使わずにコミュニケーションをとることは不可能だ。互いに「わたし」であることから対話は始まる。今ではそれはごく当たり前のことだが、チェコに来た当初のわたしは、「I=わたし」という主語を用いて考え、話す訓練をしていたのだ。 今では、たとえば母のことを思う時でも、「彼女の状態や言動」と「それに対してわたしが感じること」とは主語が異なるので、物理的事実と自分の感情を混同することはない。半ば無意識ながらも、常にそういう視点で物事を見て…

自分の日本語を自らで鍛え、自分の言語を使って考えることの重要性

以下は安冨氏の話からの抜粋と要約。 「自分の言語(母語)の運用能力に匹敵するほどに、外国語を運用することはできない。だから、日本語でしっかり考える必要がある。そのためには、自分の日本語を鍛え上げないといけない。」 「日本語の古典や中国語の古典など、日本語と日本文化を育てた様々なものを自分で吸収していかないと、きちんと日本語で話すことはできない(つまり、きちんと自分で考えることができない)。」 「自分の言語を自分で鍛え上げて使う訓練ができておらず、定形的な喋り方しかしていないと、外国語を勉強して使い始めても、その言語の定形の中でしか話す(考える)ことができない。」 「現代の日本語は、元々日本列島に住んでいた人々が話していた言語に、朝鮮系やアルタイ系の言語が混ざり、中国語が大量に入り、さらに近代になって英語が入ったという非常にクレオールな言語。なので、日本語の中だけで単純かつ論理的に思考できるようにはなっていない。だから、自分の日本語を自分用に鍛え上げる必要がある。これは日本語だけの問題ではない(他言語においても同じだろう)。」 「日本語の場合、固まったスタイルができていないが故…

無限の断片

肉体はひとところにしか存在できないけれど、わたしはいつでも遍在する。どちらも本当だが、わたしにとっては後者の方がよりリアルだ。夢の世界の方が、現実(と呼ばれる世界)よりもはるかにおもしろいのも同じこと。 地上の一点に過ぎない固形物である肉体と、それによって制限される偏った体験も確かにおもしろいけれど、それは、創作を楽しむことに似ている。「わたし」を超えるわたし本体の方がよりリアルだが、地上ではそれを形にすることはできない。だから、肉体があるうちは、ひたすら再現しつづけていくしかない。創作はいつも一瞬の断片。そもそも「わたし」こそが創作であり、断片だ。…

内と外の共振とその色

音楽を聴きながら文章を読むことができなくなったのを改めて実感する。何かをしながら、別の何かをすることができない。だが、それでいい。ひとつひとつに専念するので、聴きたい音楽しか聴かないし、読みたい言葉しか読まない。身体と、身体を超える自分が共振するものだけを選ぶ。大切なのはいつでも、身体の内と外に起きる共振とその色だ。 外からやってくる音楽は、わたしの中の音楽を呼び起こす。以前よりも音楽を聴くことが減ったのは、内側に流れる音楽を聴いているからだ。しかしまた、内側の音楽を蘇らせるために、時に誰かの音楽を必要とする。アートとはそういうもの。 言葉だって同じだ。誰かが語った言葉を読みながら、自分の中の言葉を感じている。内側にある言葉が、誰かを通して現れる。まるで無限鏡のようだ。そうした力を宿す言葉だけあればいい。…

個々の肉体を通って流れる「母」という名のひとつの川

今日もまたいくつも夢を見たけれど、ストーリーは忘れてしまった。ただ、ある夢の中で浮かんだフレーズだけははっきりと覚えている。「人の中には母という名で呼ばれる川が流れている。人と人との間を渡って脈々と流れている。それを解放することが癒しであり、自立の源である。」と、わたしが誰かが言っていた。 個別の肉体を持つわたしたちの中を「母」と呼ばれる同じ川が流れているらしい。そして、その川を「母」と呼ぶことは、時に勘違いの元でもあるようだった。自分の中にも、他者の中にも、その川があることを認め、それを解放し解放されることが、本来の癒しだそうだ。 等しく流れるひとつの川とは「命」かもしれないね。…

アメジストのビジョンと記憶

昨夜眠りに落ちる前、ぎっしりと詰まったアメジストの結晶の中を進んでいくビジョンを見ていた。アメジストでできた洞窟に入りこんだかのようで、とにかく美しかった。延々と重なる透き通る紫色へと吸い込まれるように眠りの世界へ移行した。確か、フォーマルハウトのことを思いながら横になったのだった。 小学生の頃、近所の道路でアメジストを拾ったことを思い出した。研磨とカットが施されていたので、誰かの装身具から外れてしまったのだろう。道の上にキラキラ輝く小さな紫色を発見した時の興奮は今でも覚えている。持ち帰って宝物にした。あの日、鉱石というものを初めて知った。…

新しい世界

ミュージシャンの知人が訪問介護業者で働き始めたことを、彼自身のFacebookへの投稿で知った。コロナ禍で演奏の仕事がなく、オンラインでの音楽活動にも気がのらないので、潔く気持ちを切り替えたとのこと。思っていたよりもずっと楽しいと書いてあった。また、別のミュージシャンからも、音楽とはまったく関係のない仕事を始めると聞いた。 やはりコロナ禍により店が営業できず、収入が途絶えたままなので、農場へ働きに行くことにしたという、欧州のどこかでレストランを経営するシェフのツイートを目にしたのを思い出した。欧州では、各国の国境封鎖の影響もあって農業労働者が大量に不足しているそうだし、きっと良い決断だ。 彼らのように、これまでとまったく異なる新しい仕事や生活を始める人がますます増えていくだろう。既に世界はすっかり変わってしまったのだから、状況の変化や与えられる機会を待っているだけでは取り残されてしまう。未知の可能性へと自ら移行していく人たちから、新たな生き方と価値が生まれていくんだろう。…