人はみなフィクション作家

ある書籍のレビューに「専門家が見れば典型的な統合失調症の人の文章、一般人が理解できない無価値な妄想の羅列」とあり、笑ってしまった。著者本人が「誰にでもわかるようには書かない、なるべく象徴は象徴のままにして、好きに書く」「書いていて楽しいかどうかだけ」と言い続けているので、それはそうだろう。 期待していたものが得られないと、相手がおかしい、間違っていると文句を言い、批判するのはよくあることだ。そして改めて、統合失調症だとか躁鬱だとかといった診断・判断は、社会的な都合のためにあるのだなと感じる。もし、社会的には病であっても、本人と周囲が無理なく生きられているなら、少なくともそれは”問題”ではないだろう。 世の中には、自分(たち)が信じている考えからはみ出すものは問題とみなし、ラベルをつけて”影”にするというパターンが蔓延していて、みなそれを自分で自分に繰り返し、他人に対しても当たり前のように繰り返している。件の著者はむしろ、そうした二極化ひいては断片化から抜け出すことについて書いているので、それは”理解できない”となるだろうなと思った。 そもそも、人が語るものは、すべてフィクションで…

我即宇宙

所有という概念を抜けると世界のすべてが自分になる。 自分というこだわりを手放すと宇宙のすべてが自分になる。 我即宇宙。…

"Welcome to Another World"

2006年の夏の終わりに、夢で見た川を訪ねて、3週間ほど京都に滞在したことがあった。滞在したホテルには、各部屋ごとに異なるアート作品が展示されていた。それらはみな、作家たちが実際に部屋に滞在しながら作った作品だった。 わたしが滞在した部屋には、その部屋をそっくりそのまま描いた大きな絵画と、額におさめられた一冊の本が展示されていた。絵には「Welcome to Another World」という文字が書いてあり、本の中には「easy access to another world」という言葉があったことを覚えている。 その本には「私がこの部屋にいたら、後から彼がやってきた。彼は、こことは違う世界で同じ部屋にチェックインしたらしい。この世界の私と別の世界の彼とが、この部屋で出会った。」というようなストーリーが英語で書かれていた。その部屋は異次元へのポータルになっているということだった。 あの部屋に滞在しながら京都の街を巡っていた間に、実にたくさんのおもしろい、あるいは不思議なめぐり合わせと出来事が起きたのも覚えている。夢で見た川を訪ねた際には、人生で初めてトランス状態を体験した。その…

ポータル

随分前のことだが、ある友人の家でおもしろい体験をしたのを思い出した。 わたしはその日、彼女の家に泊まっていた。そうして二人で深夜まで話し込んでいたところ、不意に妙な気配を感じはじめた。見えない何かがそこにいる、あるいは室内を通り抜けていくように感じられた。怖くはなかったが、なんともいえない奇妙な雰囲気が漂っていた。 一体どこにその気配を感じるのか、二人で家の中を動き回って確認した。そして、どうも台所の窓から居間に向けて”何か”が流れこんでいるように感じられた。さらに互いの感覚を確認しあいながら観察しているうちに、”何か”が流れこんでいると感じられる先に、ある絵画が飾られていることに気づいた。 それは、彼女が好きなある有名な画家の絵だった。わたしたちは、どうやらその絵が、目には見えない”何か”が行き来するポータルになっているらしいと思った。そして、絵を裏返したか、何かで絵を覆ったと思う。あれは不思議と納得のいく発見だった。…

自分の言葉を持つこと

自分を持つとは、自分の言葉を持つことだ。自分を生きるとは、自分の言葉を自ら発掘し、自分を作り、そうしてそれを生きること。 誰かが誰かの都合にあわせて作った概念や言葉に自らをあてはめてばかりいては、ただ流されるだけの存在として消費され、同じ輪廻を繰り返すだけだ。属性や立場を自分だと思いこんだり、「自分」などというものが元からあると思うのはただの勘違いで、自分とは自ら作り出すものであり、それは即ち自らの言葉を獲得することでもある。…

自我は軽く、地に足を着けず、ひそかに着々と目的を遂行する

「今後も団体とか福祉法人とか絶対に組織しないし、ましてや政界なんか永遠に行かない」「地面作ると霊的に動けない(ので作らない)」「ますます見えない存在になって、より深く目的を遂行する」「広く大きく有名にするんじゃなくて、さらに深く突き刺す」という坂口恭平氏の言葉は、わたしが意図するところと同じだ。 目的を遂行するためにも、自我はとにかく軽くしておく。実存するのかどうかも分からない架空の存在ぐらいに思われている程度でちょうどいい。そして、地面(現実)には足をつけずにずっと浮遊しているか、たまに片足がつくぐらいがいい。足をつけるのはせいぜい水まで。そうすれば、重力(社会)に取り込まれることなく、自由にどこへでも行き来できる。自我をなるべく軽くしておけば、何にでもなれるし、失敗も出来の善し悪しもなく、ひたすら作り続けられる。そうしてひそかに着々と自らの目的を遂行していくのだ。 > 自分でプラットホームつくるのも少しだけ考えたけど、やっぱり地面作ると霊的に動けないので、Twitterに永遠に寄生します^_^ ま、他のおもろい世界ができたらそっちに移行するかもだけど。どんな世界に偏在したとして…

Vzpomínka na Atlantidu

今日見た夢の中で自動書記のように描いていた絵の中の景色も、以前に地下鉄の中で見た強い体感を伴う白昼夢の中の風景も、海の向こうにモン・サン=ミシェルに似た建物が小さなシルエットになって浮かんでいた。その眺めはまるで天空の城ラピュタのようでもあり、地上にはない場所のようにも感じられる。 そして、あの白昼夢を思い出すたびに、アトランティスの名が頭に浮かぶ。今日見た夢もきっと同じ何かに繋がっているのだろう。 そんなことを思っていて気づいたが、わたしはピンホールカメラでも似たような眺めを撮り続けている。それは、静かに広がる水面の向こうに浮かぶ城のような建物のシルエット。 わたしのWebサイトのタイトルは「Cesta ke hvězdám」というもので、これには「星々への道」つまり精神的故郷へ繋がる道と、やがて旅立つ先の星への道を、自ら発掘し、作り出して、準備をするという意味がこめられている。 そして、年齢的に木星期を迎え、さらに木星回帰(木星は明日魚座へ移動する)を迎えようとするこの時期にわたしの元へやってきたテーマは「Vzpomínka na Atlantidu」というものだ。アトラン…