マルカブ、シェアト、アルゲニブ、アルフェラッツ

今日は何度目が覚めても再び眠りたくて、たくさん眠っていくつもの夢を見た。 ある夢の中では、わたしは幼なじみとともに実家近辺に似た住宅街にいた。道路に3頭の犬がいるのが見え、そのうちの1頭がさくらだとわかった。さくらは頭をどこかにぶつけたそうで、頭頂部に黄色い絆創膏のようなものを貼られていた。また、夢の中の彼女は実際よりも痩せていて、年老いて見えた。 そこにわたしの母が現れて、細長い白いリーシュを「これを使えばいい」といった風にわたしに手渡した。わたしは「見たことのないリーシュだな」と思いながら、それを受け取った。夢の中では相変わらず、母の顔や姿は曖昧でよく見えなかった。 別の夢では、わたしは長い旅をしていた。男性と一緒だったが、彼はVだったか、あるいはまったく知らない人だったような気もする。古い大きな木造家屋の中で、わたしたちは炬燵に入って暖をとっていた。そこに、島根の海辺に暮らす友人夫婦が現れた。わたしは「あ、ここは島根なのか」と思った。 次の場所へ向かう前に買い物をするため、わたしは彼らとともにショッピングモールのような場所を訪れ、下着売場や書籍売り場を見て回った。わたしの…

不満足のままでいたい人もいる

わたしの母のパートナーには長年別居したままの妻がいる。過去には女性二人の間で激しい衝突もあったと聞いた。母が死んだ後、わたしは彼に率直に「なぜ、あなたの妻はそれでも尚あなたとの離婚を拒否するのか」と尋ねたことがある。彼はにやりと笑って「愛されてるからや」と言った。 わたしはぎょっとしたけれど、彼もやはり依存と執着を愛だと勘違いしている人なのだとわかった。彼だけでなく、彼の妻も、わたしの母も同じだった。だから互いにずっと依存しあい、執着しあってきたのだろう。 本人たちが依存と執着の中にいたいのだから仕方ない。母は自らの依存に気づきながらも、そこに留まったまま死んでいった。彼女がそれを選んだのだし、それでよかったのだろうと思っている。 わたしは自分が巻き込まれないよう彼らの物語から距離を置いてきたが、彼ら自身の選択を否定はしない。人はみな生きたいように生きる。人は人、自分は自分、それだけのことだ。…

出現を待つこと

言葉は追いかけると逃げる。とらえようとすればするほど取り逃がす。だから、風の通り道を作るように自分の状態を整えて、あちらの方からやってくるのを待つ必要がある。 写真も同じだ。追えば追うほど逃し続ける。だから、あちらからやってくるのを待つしかない。それも、ただ待つのではなく、やってきたものに自ずと呼応するよう、通りのよい自分でいる必要がある。 こう書いてみて、言葉も、写真も、手段なのだと実感する。言葉や写真が目的ではなく、言葉を通して描き出される何か、写真を通して現れる何かこそが目的なのだ。そして、それは、捕まえようとすればするほど逃げていく。だから、手段が何であれ、自分自身の通りをよくして、静かに待つことだ。 見つめることと待つこと、それが美しいものにふさわしい態度である。自分で考えつくことができ、欲求することができ、願望することができるかぎり、美しいものは出現しない。だからこそ、すべて美の中には、除き去ることができない矛盾、苦、欠如が見出される。 ― シモーヌ・ヴェイユ…