身体の快を最優先して暮らす

身体がいつでも最優先だ。身体の快と不快に従って、動き、休む。たとえ頭(都合、思い)がやりたがっても、身体が嫌がることはやらない。 家事も仕事も、頭が思うようにやろうとすると身体に無理を課すので、身体の状態にあわせて常に調整しつづけている。「今日はあれを終わらせたい」と思っても、身体がついてきそうになければ、迷わず作業の数を減らす。 外へ出よう、写真を撮りに行こう、空や雲や星や水を見に行こう、という欲求には素直に従い、すぐ行動する。身体が動きたがるように動く。身体が休みたがったならすぐに休む。 とにかく、あれもこれもやろうとしない。というよりも、同時に複数のことはできなくなった。おそらくそれが本来なのだろう。一日のうち”やること”は2つまでにして、3つ以上には増やさないようにしている。…

古い知人が現れた夢

8年ほど前に死んだ知人が夢に現れた。 昔の実家に似た建物の中で、わたしは法事か何かを取り仕切っていた。座敷にはテーブルがいくつも並んでいて、既に多くの人が集まっていた。玄関の前に仕出し屋の車が停り、知人がオーダーしたという寿司や料理が届いた。わたしはそのあまりの豪華さと量に驚いた。調理用白衣を着た配達人は、わたしが驚いているのが嬉しいようで「うちの寿司は豪華でしょう!」というようなことを言っていた。 わたしはその豪華な寿司やたくさんの料理をテーブルへ運んだ。やがて知人が到着した。彼は生前と同じく優しい雰囲気を纏っていた。しかし、顔ははっきりとは見えなかった。 既に亡くなっている人が夢に現れることは割とよくある。しかし、彼らの顔や姿はいつも曖昧ではっきりと見えることがない。母方の祖母は夢の中ではいつも少し離れたところにいて姿すら見えない。それでも、それが誰なのかはわかる。 既に肉体という物質的な形を脱した彼らの顔や姿がはっきりと見えないのは当たり前だ。夢の中の彼らは、実際には生前の彼らではない。わたしの意識が、夢の中での体験を描写するために、彼らを象徴あるいは記憶の型として利用し…

思いがけない楽しい交流

旧市街のある場所でピンホール写真を撮ろうとしていたら、向かいから歩いてきた人に、いい光景だから写真を撮ってもいいかと尋ねられた。彼もこの場所で写真を撮りたいのだと思い承諾したところ、彼はわたしの写真を撮りたいのだと言った。考えるよりも先に「いいですよ」と答えていて、わたしはライカを手にしたまま写真におさまってみた。ごく自然な流れだった。 彼はデジタルカメラ、わたしはR型と、タイプは違えどライカのカメラを持つ同士ということから自然と会話が始まり、しばし立ち話をした後、互いのWEBサイトやInstagramアカウントを教えあった。突然の巡りあわせには驚いたが、不思議と話が弾む楽しいひとときだった。…