粒子のゆらぎ

目の前にあるすべての存在が突如として無数の粒子の流れや揺らぎとして見えた6~7年前の体験について、久しぶりに人に話した。あの時わたしは初めてやってきた感覚に驚きながら、粒子のゆらぎや偏りを脳が形として認識・解釈しているだけで、すべての形は通過点でしかないのだなと妙に納得した。 そして、やはり自分が自分だと思っている「自分」は一瞬そのように見えただけのものなのだなと思った。「自分」だけでなく、自分の中で繰り返し作り出される「過去」も「記憶」も、そこに登場する「他者」も、やはり同じく、一緒そのように見えたというだけの通過点であり、ある種の幻のようなものだ。…

"Transcend yourself"

今日はある人に宛てた返事の中でこんなことを書いた。 母そして「家」からの逃走は、社会や「国」からの逃走、あるいは、あらゆる属性や立場からの逃走、そして固定化されたアイデンティティからの逃走でもありました。そうしたあらゆるレベルでの逃走は同時に、物理的条件からの逃走、地球そして惑星、つまり相対性からの逃走にも繋がっていた気がします。…

自分とは何か

自分で自分だと思う「自分」など水面に反射する一瞬のきらめきのようなもの。 ある日ふとそう思ったのを今でも時々思い出す。 消しゴムでこすってみようアイデンティティとかいうそのまぼろしの枠…

思い通りを目指すより、思いを超えたものに出逢う方が楽しい

ピンホール写真を撮るようになってからは特に、いったい何が「失敗」なのかわからないと感じるようになった。「思っていたのとは違う」ということはあっても、「やり損ない」はない。むしろ、計測ミスや手順の間違いが、びっくりするような結果になったりもするからおもしろい。 思い通りのものを作れる/近づくまで繰り返し追究し続ける信念もすごいとは思うのだが、「思い」を超える発見と驚きの方がわたしには楽しい。それが果たして”作品”なのかどうかとは別に、自分で作って自分で驚き続けられたらそれだけで満足だ。つまり、自分の喜びのためにやっているのだとまた確認した。…