シンクロニシティ

朝に目は覚めたのだが、全身が重くてベッドから起き上がることができなかった。手足の指の関節が痛み、口の中が不快で、身体が浮腫んでいるように感じた。さくらの散歩とケアはパートナーに頼んで、さらに眠ることにした。それで、たくさん夢を見た。今もまだ身体が重い。さくらも今日はずっと寝ている。 眠っている間に、父から電話がかかってきたが、夢見の邪魔をされたくなかったので電話には出なかった。その後立て続けに何度も着信があったけれど、着信音をミュートしてそのまま眠った。 わたしが「調子がいまいちだな、身体が辛いな」と感じる時には、大抵わたしのパートナーも何かしらの不調を感じている。互いの体感や症状は異なれど、だいたいいつもシンクロするので「今日はきっとそういう日だね」と話している。そして、そういう日には、さくらはあまり歩きたがらない。いつものように散歩には出るけれど、すぐに帰りたがる。そして、家にいる間はよく寝ている。わたしとパートナーだけでなく、さくらの様子もシンクロしている。…

この世界における生と物質的存在はわたしたちのほんの一部でしかない

友人に見せるため、フィルムで撮影した母の死の前後の写真を見返していた。そして、わたしたちが肉体と名をもって存在している時間、つまり、この世界における生なんて、わずかな一部だと思った。 わたしは、母の死の直後からずっと、彼女の不在を感じていない。彼女がもうこの世界に存在しないことはわかっているが、以前との違いをあまり感じないのだ。しかし、こうして彼女の写真を見ると「そうだ、彼女はもうこの世界にはいないのだった」と確認する。だが、そこで感情が動くことはない。ただそのたびに再確認するだけだ。それ以外に大きな変わりはない。 そう気づいて、彼女が名と肉体をもってこの世界に存在しているかいないかの違いは、そう大きなものではないと思った。わたしたちの本体は、肉体をもってこの世界で生きている「部分」よりもはるかに大きい。…

別れようと屈託なく伝える夢

夢の中で、わたしは知らない部屋の真ん中に置かれたベッドで眠っていた。わたしは長い旅から戻ったばかりでとても疲れており、一日中眠るつもりだった。しかし、突然たくさんの人が部屋に入ってきて、列を作って座りはじめた。どうやらみな若い学生たちのようだった。中には教師らしい大人の姿もあった。人々はみなベッドで眠っているわたしのことを訝しげな目で見ていた。 そうするうちに、スーツを身に着けたわたしの元夫が現れ、ぎっしりと肩を並べて座った人々の前に置かれたホワイトボードに数式のようなものを書きはじめた。そこでわたしは、今から何か講義らしきものが始まるらしいことを察した。わたしは、布団の中でしばらく迷った挙句、ベッドから出て、人々をかき分けるように歩いて部屋の外へ出た。せめてパジャマ(オレンジ色だった)を身に着けていたから、ベッドから出ることができて良かったと思っていた。 ドアを出たところには、わたしの母が使っていた着物箪笥に似た箪笥が3つ並んでいた。わたしは、外へ出るために着替えようと思い引き出しを開けたが、服は見つからなかった。磨りガラスがはめこまれた扉の向こう側に、ホワイトボードに長い数式を…

ある日、夜道を歩きながらふと、影こそが本体だと思った。街灯に照らされた自分の足元に常に現れ続ける影を見ながら、わたしが自分だと思っている「自分」よりも影のほうがずっと真実なのではないかと感じたのだった。…

影と自分

四半世紀ぶりに連絡を取り合った同級生から、彼女の周囲の人々の話を聞いて改めて思うのは、実に多くの人たちが自分を持たないまま立場だけを生きているということだ。彼らは自分の「影」を他者に押しつけ続けている。そうして何かに同一化して、他者に強烈に依存したまま、自分を生きずに死んでいく。 誰かのことを「間違っている」と感じる時や、自分を誰かの犠牲者だと感じる時、わたしたちは自分の影を相手に押しつけているだけだ。しかし、それを認めないために、わたしたちはあらゆる理由を作り出して他者を批判する。だが、それが実は自分の影だと気づくまでは、延々と二極化を繰り返すだけで、どこにも出口は見つからない。 自分の中の僅かな一部に固執して「これが『自分』だ」と思う時、それ以外はすべて影になる。しかし、実は影の方がはるかに大きい。小さな自分に閉じこもるほど、わたしたちはそれよりはるかに大きな影に支配されていく。影を他者に押しつけることで、自分自身を矮小な関係(立場)に縛りつけていく。 自分が、自分の中の小さな一部を「自分」だと思って固執していること、そして、それ以外は影(さらに言えば「自分」にとって都合の悪…

日本からチェコに移住した柴犬さくらとの新しい生活

新居にはまだ収納家具がないので、引っ越し荷物から引っ張り出した日用品があちこちで山積みになっている。家の中はどこもかしこも混沌としていて、わたしの人生の中で最も散らかっている状態だ。そんな中をさくらがうろうろするものだから、そこら中に犬の毛も散乱している。 わたしは元々潔癖症と言えるほどのきれい好きだが、こんな状況の中ではあきらめるしかない。台所とテーブルの上(の一部)、ベッド(と言っても床にマットレスを置いただけ)周り、床はこまめに掃除しているが、荷物の整理や片付けはのんびりやっていくことにした。今も目の前は大変な混沌ぶりだが、わーすごいと他人事のように眺めながら過ごしている。 そして、潔癖症であるはずのわたしが、犬の毛だけでなく、ほこりや、小石や、人間の体毛や、ゴミくずや、虫の死骸が散乱する床の上に這いつくばって、さくらの写真を撮っているのだから、おもしろいものだ。…

2020-09-24 母を看取った後の日本滞在日記

7月上旬に日本に到着してからずっと怒涛の日々が続いている。母を在宅で介護して最期まで看取り、彼女を見送った後は、膨大な量の死後整理と相続、実家を親戚に明け渡すための物理的な整理、そして、柴犬さくらのチェコ移住準備を進めてきた。 そして、チェコでは、プラハを離れて南ボヘミアへ引越すための準備が進んでいる。わたしが日本にいる間に、チェコの新居が見つかった。長らく家を探してきた街とは異なる別の土地だが、なぜか惹かれる場所なので、ほぼ即決した。この数ヶ月間、実に多くの変化が起きた(まだまだその最中だ)。 チェコに帰ったら、これまでとはまるで違った生活が始まる。…

大きな川を上る夢、ボルヘス、アルゼンチンからのメッセージ

ゆったりと流れる大きな川の夢を見た。ヴルタヴァ川に似ていたけれど、どこにもない川のようだった。わたしは街から上流へと川沿いに移動していた。途中、川の両側に大きな岩場が切り立つ場所があり、わたしは川の真ん中から向こう側を眺めてその光景に感嘆していた。確か写真を撮っていたように思う。 上流に向かっても川は大きくて、たっぷりの水が滔々と流れていた。どんどん上流に向かうと小さな町が見えてきた。建物の様子や風景はやはりチェコのそれらに似ていた。わたしは、川の上に架かる橋に隣接された駅のようなところへ向かい、建物の中へ入った。そこから先は覚えていない。 この夢を見たあと、ホルヘ・ルイス・ボルヘス『詩法(The Art of Poetry)』の言葉を思い返していた。ピンホール写真を通して知り合ったアルゼンチンの画家から「以前から言っているように、君は夢の本を書くべきだよ。」というメッセージが届いた。…