「人格は軽くしておくのがいい」ー 「わたし」とはさざなみのようなもの

この松村潔氏の動画の中に出てくる「人格は軽くしておく」という言葉はとてもわかりやすい表現だ。「これがわたし」と自分で思っているようなことは、実は自分がそう思いたいだけなので、あまりこだわらないのがいい。むしろそこはあまり目立たず無名な方が、単独で身軽に枠や境界を超えやすい。 「社会内相対的自己の人格に特別さを求めるのは割と無駄なこと」というのもその通りだ。社会の中の歯車(役割)としての自分にどれだけ特別な個性を求めても、その枠組みの外側から見ればそこに大した違いはない。地球の外から見れば、地球上の存在に個性の違いなどほとんどないのと同じこと。 「わたし」とは流れる川の水面に浮かぶ一瞬のさざなみのようなもの、というイメージがわたしの中にはある。瞬間的に浮かんではすぐに崩れて消えるもの。本体は流れる水の方だ。…

祖母、母、わたし ー オリオンの三ツ星

このところ、既に他界している母方の祖母がよく夢に現れる。夢の中の祖母はいつも、わたしから少し離れたところにいる。彼女の顔は見えないけれど、その存在ははっきりしている。しかし、わたしたちが言葉を交わすことはない。 ふと思い立って祖母の出生図を見てみたら、太陽、月、水星、木星、天王星が魚座に集まっていて驚いた。太陽と木星、そして水星と天王星が、魚座でぴったりと合わさっている。金星、土星、海王星は火のグランドトラインを形成している。土星座には天体がひとつもない。 わたしと母が3月3日生まれ、祖母は3月4日生まれ。三人とも同じ干支の生まれだ。だから、三人の太陽はほぼ同じ位置にあり、水星と金星、木星の位置も近い(わたしだけ水星が水瓶座にある)。母方の家紋がオリオン座の三ツ星(三姉妹)に由来すると知って以来、三代目のわたしで完了・離脱するのだと思っている。最近よく夢に祖母が現れるのも、あちら側からのメッセージだ。…

鳩尾に太い管がついた夢

また夢の中で身体を改造された。今回は、鳩尾のあたりに太い管が装着されていた。人工皮膚で覆われた管は一部が蛇腹になっていて、腹から突き出てすぐ垂直に曲がり、煙突のように上に向かって伸びていた。管が出ているあたりの皮膚に引き攣れるような感覚はあったけれど、痛みや不安はまったくなかった。 わたしは、病院の診察室と手術室があわさったような広くて明るい空間で、白衣を身に着けた男性から術後の最終処置を受けていた。その後、どのように場面が切り替わったかは忘れてしまったが、次に覚えているのは、大きな公衆浴場かプールの更衣室に似た空間でのシーンだ。わたしは、ロッカーにしまってあった服に着替えようとしていた。そこで、鳩尾から管が出ているため、そこにある服はどれも着用できないことに気づいた。そして「管があっても着られる服を買わなきゃ」と思っていた。周囲には様々な年齢の女性が素っ裸でうろうろしていて、時折むっとするような体臭が漂ってきた。 この場面の前か後かは覚えていないが、わたしは、何かの舞台のリハーサルに参加するため、現場へ向かう支度をしていた。公共施設の給湯室のような場所で、わたしは朝食用の紅茶を淹…

創作物=作品とは、自覚的に成された排出物のこと

食べて、消化し、排出する。創作もまさにこのサイクルだ。形として出てきたものは、文章であれ、絵であれ、すべては食べられ、消化され、排出されたもの。だから、それそのものに、良い悪いや、正誤の区別はない。名作だろうが駄作だろうが、根本的には排出物であることに違いはない。しかし、だからこそ、その排出がどのような意識をもって成されるかによって大きな違いが生じるとも言える。なぜその排出が必要なのか、そして、どんな形に排出するのか。そのことに自覚であるかないかによって、排出物は文字通り宝にもなれば、場合によっては糞にもならない。 ただ、いかに自覚的に注意深く形作られた排出物も、万人にとっての宝にはなり得ない。ある人にとっては糞でしかないものが、別の人にとっては至宝の作品になることもある。排出された形=創作物の価値は常に相対的だ。そして、それは、創作者(排出者)自身の満足や納得とはまったく別のことだ。 自覚的であること、これに尽きる。自分がどんなものを食べ、どのように消化し、どんな形に排出するのか。すべてのプロセスに自覚的であること。何のためかといえば、自分に気づき、自分が納得するためだ。そうして…

とける、まざる、ながれる

今日も一日雨が降ったりやんだり。空は終日薄い灰色で、窓の外も、部屋の中も、しんとして仄暗い。ソファーの上で横になり、時おり窓を打つ雨の音にぼんやり包まれていると、いろんな時、さまざまな場所で、ひとり静かに横たわっていた雨の日の記憶がいくつも蘇ってくる。 「雪解け水があれもこれもいっしょくたにして押し流していくような」と昨日友人が言っていたけれど、わたしの中もそんな感じだ。些細な記憶の断片がとりとめもなく浮かんでは、ごちゃ混ぜになって流れていく。あらゆる色と感触がゆるゆる溶け合っていく。 「そういえば、そんなこともあったっけ」と思いはするものの、どの記憶もいつか読んだ物語の中の情景のように感じられる。まるで、小説を後ろから読んでいるみたいだ。どんなドラマも後になって振り返ればすべてが筋書き通り。時が未来から過去へ流れているように感じられるのも当然だろう。 すべては創作だったんだ。自覚しているかしていないかだけで。あれもこれも全部が自分だ。そうすると、そもそも自分とは何なのだ?と思う。自分とは、肉体をして此処に在る個体ではないことだけは確かだ。…

やってくるもの、還っていくもの ー 普遍と個性 ー 混沌をひととき形にすること

いつからそう感じるようになったかは忘れてしまったが、わたしには、自分の体験は自分だけのものではないという感覚がある。わたしの体験は固有のものではあるけれど、実際にはその中に、わたし以外のすべての人々に共通するものがある気がする。 わたしにとっては、たまたまそういう”体験”だったが、他の人にとっては、それぞれに相応しい固有の”体験”になるのだろう。しかし、そうした形としての現れ方とは異なる次元で、個々の体験の中には常に普遍的なものが流れているように思う。 別の言い方をするならば、どんなことも「わたしが体験した」と同時に「世界(または宇宙か?)が体験した」ように感じられるのだ。または「世界(宇宙)がわたしを通して体験した」と言えるかもしれない。そして、たとえば、ある体験がわたしにとって〇年前のことであったとしても、世界(宇宙)にはそうした時間軸による区切りはない。 常にそういう感覚があるので、たまたま味わった何かしらの体験が、やがて機が熟して言葉などの形として外に現れる時には、「わたしを通してやってきたものが、わたしを通って還っていく」ように感じられる。それが、わたしが「ほどく言葉」…

初めてのサポートを受け取って

noteの無料記事を金銭的にサポートする(そうして”オススメ”する)機能があることを、昨日まで知らなかった。「サポートがありました」というお知らせメールを受け取って初めて気がついた。昨年11月に使い始めてからずっと書いて投稿するだけで、ダッシュボードページがあることにすら気づいていなかった。 2019年に自分のWEBサイトとブログを閉鎖してから、まとまった文章や写真を投稿・保存する方法がなかったので、友人たちが使い始めたのに倣ってnoteを利用しはじめた。そういうわけで、ブログとまったく同じ感覚で、自分自身が納得するように書いて投稿していた。そして、日記がわりに過去の文章を読み返し、気になる時に添削していた。 フォローもフォロワーも両手に満たない数だし、そもそも、わたし自身が納得するために書いたものばかりなので、読む人は殆どいないだろうと思っていた。そして、それで十分に満足していた。 そんなものだから、金銭サポートを受け取った時には本当に驚いた。その記事は、思いがけず機が熟してわたしの中から出てきた、自らの体験に基づく文章だった。実際に目にした情景をありありと思い出しながら、すー…

虐待と暴力の連鎖は構造的問題であると気づくこと。目の前の子ども、自分の中の子どもを守ることが、人生を変え、社会を変える。

「子ども時代に傷つけられた人間がなぜ権力を持てるのか、どうして権力者に選ばれるのか。それは、我々ひとりひとりにも同じ傷があるからだ。」 「小池百合子氏(に代表されるような権力者)に強烈に惹かれる人も、猛烈にむかつく人も、(その原因は)あなたの子ども時代にある。」 安冨歩さんと清水有高さんの話を聞いて思い出したのは、過去にわたしが日本の某省庁所管法人で派遣社員として働いていた頃の体験だ。その職場では、時々指導にやってくる担当省庁のキャリア官僚が、幹部職員を激しく罵る光景が日常茶飯事だった。 怒りで顔を真っ赤にして暴言を吐き続けるキャリア官僚と、じっと黙って項垂れる彼よりはるかに年上と思われる幹部職員の様子を初めて目撃した時、わたしは呆気にとられた。それは、物語の中でしか聞いたことのないような言葉の嵐だった。しかし、何度か重なるうちに、まるで奇妙な寸劇を見ているような気がしてきた。 後から聞いた話では、その人(上記のキャリア官僚)は両親との関係に傷を抱えているらしいとのことだった。怒り狂って大声で怒鳴り散らす彼の姿は、まるで泣き叫ぶ幼児のようだったので、その話には納得した。同時に、…