2020-03-16 外出制限発令後の記録

国境が封鎖され、商店の大半が営業を停止し、外出制限も出されたけれど、わたしが暮らしているプラハ郊外は静かなエリアだからか、いつもとあまり変わらない。近所への散歩程度の外出は許されているので、徒歩10分ほどのところにある大きな公園や渓谷にも行きたければ行ける。元々引き籠って暮らしているから、生活はほぼ普段通りだ。 先週までは、静かになったプラハの街の写真を撮りに行くつもりでいたが、感染拡大予防措置として外出制限が出た今となっては、自分の安全だけでなく、他者を感染させるかもしれないリスクを負ってまで出かける気にはならない。それよりも、自宅に籠ってできることをやる方がいい。静かに止まるのは快適だ。暇と退屈こそ貴重な創造性の源だろう。 2011年の震災直後、東京の街が静かになり、夜がちゃんと暗くなって快適だったことを思い出した。…

2020-03-15 チェコ国境封鎖後の記録

物理的移動と活動を減らす/止めるのは、治療法のない新型ウイルスの感染拡大をなるべく少なくとどめるためであって、自粛/萎縮とは別のことだ。これはむしろ、今まで外に求めていたことを、内に見い出す/内から作り出す=独自の創造性を発揮するいい機会だろう。「これまで通り」を脱ぎ捨てて、物理的な移動や接触がなくてもできる、新しい表現や方法を自分で作り出すことだ。 以前から、多くの占星術師が、2020年は世界構造の土台が変わる破壊と再生のピークだと言っている。長い間信じられてきた価値観が通用しなくなる時。流れを遅らせる古い方法は淘汰され、より速く流れる方法へと切り替わっていく。集めて、貯めて、積み上げる時代の終焉。数百年単位の新陳代謝。旧来の方法を脱して、より柔軟に動く個々から、まったく新しい世界が始まっていくだろう。変化に代償が伴うのは当然のこと。この新型ウイルスによる停止と破壊がいつまで続くかはわからないが、その後に始まるだろう創造と新たな世界を思うとワクワクする。…

詩とは形ではなく、その中に流れる本体のこと

詩は自我の慰めではない。むしろ詩は、思想や信念に張り付いて留まろうとする自我を破壊するものだ。 詩とは、信念や思想を語る言葉ではなく、わたしをそれらから解放する言葉のことをいう。詩の感情とは、信念や思想に基づいて機械的に繰り返される自我レベルの反応ではなく、自我を超えてやってくる、そして、自我を突き破って放たれる、とても速くて強い希求と呼応だ。 数日前に突如やってきたこれらの言葉がじわじわと腑に落ちた。詩による自我(の都合)の破壊とは、一方向に流れる時間に運ばれるしかない固形物(肉体)としてのはかない生から、わたし本体を解放する働きだ。 詩とは、形ではなく、その中に流れる本体のこと。…

ヴァーツラフ・ハヴェル『力なき者たちの力』

政治リーダーの「耐えられない軽さ」。日本人に聞かせたいハヴェル元チェコスロバキア大統領の言葉(水島宏明) - Yahoo!ニュース ニュースでウンザリしてしまう安倍首相ら日本の政治リーダーの空虚な言葉。そんな中でNHK「100分de名著」が元チェコ大統領news.yahoo.co.jp [https://news.yahoo.co.jp/byline/mizushimahiroaki/20200224-00164321/?fbclid=IwAR2KwfVrWVmfNMwmDhuY00G7Z0dviyL7TLyAMTBCNp4EbzzW-VriOuSjTiI] 「権力は自らの嘘にとらわれており、そのため、すべてを偽装しなければならない。過去を偽装する、現在を偽装し、未来を偽装する。統計資料を偽装する。全能の力などない、と偽り、なんでもできない警察組織などない、と偽る。人権を尊重している、と偽る。誰も迫害していない、と偽る。何も恐れていない、と偽る。何も偽ってない、と偽る。それゆえ、嘘の中で生きる羽目になる。」 この文章は、主語を「わたし」に置きかえても意味を成す。というよりも、…

事実と情緒は別のもの

他者(特に政府や政治家等)を批判する文章の中で時々目にする「こんな~で恥ずかしい」という表現にずっと違和感を覚えていたが、その感覚が不意に言葉になった。 これも、物理的事実を情緒に変換するという言語(日本語)の作用ではないか。 目の前にある物理的事実と、それに対して生じる個々の情緒は別のものだ。事実と情緒を混ぜこぜにすると、事をありのままに認め、それに対して主体的に決断し、行動することが難しくなる。さらに言えば、事実を認めないまま目を逸らし、自分を欺くことができてしまう。「恥ずかしい」と感じるかどうかとは関係なく、事実が「在る」としっかり認めることによって、ようやくわたしたちは思考と行動を始めることができる。それは、たとえ不快な事実であれ、目に映るすべてを自分事として引き受けることだ。 このことをパートナーに話していたら、チェコでも現首相に対する批判の中に「恥ずかしい」という声があるそうで、それに対し、チェコ海賊党の党首がわたしとほぼ同じことを言っていたそうだ。…

水鏡

眠りに就くとき、自分が深い水底に横たわっているような感覚を抱くことがある。たっぷりと満ちた音のない水の底から、青緑色の水面を見上げているイメージが浮かぶ。そういえば、過去に受けたヒプノセラピーの中でこんなシーンを見た。わたしは、岩に囲まれた小さな洞窟の中で、乾いた赤土の上に横たわり、ぽっかりと開いた岩天井から覗く青い空を眺めていた。あの時、自分が遥か遠くのどこかと繋がっている感じがした。いつの間にか、あの感覚は目覚めている時にも備わるようになった。…

創造的とは

目の前にあるものを眺めているだけは、あちらからやってくるものを待つだけの受け身な姿勢を脱することはできない。「見る」という意志を有し、自覚的に見出していくことができれば、見るという行為は創造に変わる。 「見る」を「考える」や「生きる」に入れかえても同じだ。「見る」も「考える」も「生きる」も、そこにあるものを都合にあわせて解釈することではない。…

「詩は何よりもまづ音樂でなければならない」

萩原朔太郎が『青猫』の序の中に書いている「詩は何よりもまづ音樂でなければならない」という言葉を思い出す。「文体」という言葉は、文章の姿形という意味で使われるが、体に響く文という風にもとれておもしろい。 わたしは、どんな文章を読む時にも、黙読しながら(時には声に出しながら)音とリズムを感じ取っている。自分が書いた文章も、常に音とリズムを確認する。音とリズムが体にあわない文章は読めないし、内容が入ってこない。インターネットでよく目にする改行過多な文章が読めない理由は、音もリズムもブツ切りにされているからだろう。…