2020-07-24 看取り日記

母が深夜に何度も動こうとしたため、昨夜はほとんど眠れなかった。彼女は相変わらず、彼女のパートナーを侮辱し、わたしに対しても理不尽な文句を言い、それでいて助けを求め、しかし、放っておいてくれと言って怒る。こうした彼女の矛盾した言動は今に始まったことではない。彼女自身がずっと抱えてきた内的な(そして常に外側に投影されてきた)分離そのものだ。 母はもう自力で立ち上がることは出来ないのだが、深夜を過ぎると1~2時間おきにベッドから降りてトイレに行こうとする。その度に、せん妄状態の彼女と、彼女を手助けしようとする重病人のパートナーを、わたしがサポートするという状況になる。 どうやら母はもうモルヒネだけでは眠れないようだ。とはいえ、痛みを訴えながらもモルヒネの服用を拒否することも多いが。昨夜は22時に一度看護士に来てもらい、朝一番にもまた看護ステーションに連絡をして助けてもらった。今日は睡眠不足で頭が痺れている。今夜も再び看護士に来てもらう予定だ。…

2020-07-23 看取り日記

母が天井を指さして「あんなとこに鳥がおるで」と言った。「飛んでるん?」と聞いたら「ううん」と言うので「じゃあ、鳥がそこにとまってるんやね」と答えた。 母の余命があまり長くないと感じて以来、わたしの頭の中では、誰かの手や、胸や、腹などから、小鳥が羽ばたいていくイメージが何度も浮かび続けている。そして、アンドレイ・タルコフスキー『鏡』の中の情景を繰り返し思い出している。…

2020-07-22 看取り日記

幻覚を見ているらしい母の発言にあわせておとぎ話を作って話すと、彼女は嬉しそうに笑っている。また、彼女は時々、子どもがするように「おちょけ」ることもある。そうして、二人して子ども同士みたいにふざけあっている。それでも、彼女は一応、わたしのことを娘だと認識してはいるようだ。いずれにしても、母が気分よく楽しんでいれば、わたしも楽しいし満足だ。…

2020-07-20 看取り日記

人前で、自分のパートナーを「これ」やら「うちのおばさん」などと呼んで物扱いをする人と、パートナーからそんな風に呼ばれることを当たり前として受け止める人。そういう人たちとは場を共にしているだけで疲弊する。 自分の母を「これ」などと呼ばれるのは不快だし、それを当然のこととして受け入れている母にも違和感を覚える。「それはおかしいよ」とはっきり言ったこともあったけれど、その場では「そうだね」と答えた彼女も、結局は変わっていない。 わたしは余命僅かな母のケアをするために帰国したわけだが、ややもすると、母と彼女のパートナー(それぞれ自己不在のまま役割を生きてきた共依存カップル)の両方を受け止める「親役」を押しつけられそうになる。なので、それだけははっきり拒否するよう常に意識している。 わたしが母と一対一で話すときには、役割や立場ではない本人がそこにいて、言葉も通じている実感がある。しかし、彼女のパートナーが介入すると、彼女は途端に共依存関係に戻ってしまう。これはもう、わたしにはどうすることもできない。共依存関係にある人たちは、周囲の人を無自覚に巻き込むので、彼らに関わる際には境界線をはっきり…

人は「自分がない」状態にあるだけで、虐待の連鎖を通す管になってしまう

「自分を持たずに、立場と役割を生きること」が大人になることであり、自立することだと幼少期から刷りこまれて、自分がないままになっている多くの人たちが、自分を殺しに殺して社会的上位の立場や役割に達した人によって虐待されるというシステムが、この社会では延々と機能している。それは、家庭で、学校で、組織で、国全体で繰り返されている、支配と依存のシステムだ。 わたし自身も、自分がなかった(持てなかった)が故に、いろんな人たちから、さまざまな形の虐待を受けてきた。しかし、わたしを虐待していたのもまた、わたしと同じように「自分を持つな、立場と役割を持て」と刷り込まれて立場や役割に自己同一化した人たちだった。 当然ながら、虐待する人たち=自分を殺しに殺して立場と役割に同一化した人たちには、自分が虐待をしているという自覚はない。なぜなら、自分が他者から受けてきたことを、当たり前のこととして自分もやっているだけだからだ。虐待は、それが「虐待」であると認識されないまま繰り返されて連鎖する。 このシステムの要点は、虐待をする人も、虐待をされる人も、自分がない状態であることだ。つまり、虐待を受ける人もまた、…

死と、死の向こう側

昨日、友人とのやり取りの中で、自分の意識が、死と、死の向こう側にフォーカスしているのを感じた。常に自分の半分が”あちら側”にいるみたいだ。 今年の春に知人が他界した。彼女が昨年秋から入院していたことを、わたしは知らなかった。彼女が亡くなったことを知る前日、濃い緑の山に囲まれた静かな場所で、久しぶりに会う知人女性(顔は見えなかった)を古い乗り合いバスに乗せて案内する夢を見た。夢の中のわたしは、その場所をよく知っているようだった。 アマツバメたちの群れがぐるぐる飛び回るのを毎日眺めているうちに、自分がどういう状態にあれば彼らが接近してくるのかが感覚的に掴めてきた。言葉にするなら、ただそこに在るだけの状態だ。言ってしまえば当たり前のことではあるけれど。母との残された時間においても、この状態を意識していこう。…

帰るところ

「僕を殺してください」と言ったあの人も、「私を生んでください」と言ったあの人も、ただ帰りたかったんだろう。みんな、みんな、帰りたいだけ。でも、帰る場所がわからなくなっている。どこだったか忘れてしまって、すっかり帰れなくなっている。 わたしだってそうだった。ずっと、ずっと、帰りたいのに、帰る場所がどこにもなかった。どこかにあるものだと信じて、えんえんと探し続けていた。誰かの中に、社会の中に、世界の中に、きっとあると思っていた。でも、どこにもなかった。 たぶん、ずっと空を見ていればいいんじゃないかな。えんえんと星を見ていればいいんじゃないかな。自分の底が抜けるまで、ひたすらひたすら見ればいい。ぜんぶこぼれてしまうまで。わたしが消えてしまうまで。どこでもなくて、なんにもないところ。どこでもあって、なんにだってなれるところ。おかえりなさい。…

アマツバメ

太陽が地平に近づいたら アマツバメたちの宴がはじまる 疾風のようにやってきて 瞬く間に彼方へと翔る たちまちのうちに高く昇って くるくる回って呼んでいる ぴぃぃぃぃ ぴぃぃぃぃぃ ぴぃぃぃぃ ぴぃぃぃぃぃ おなかの中が熱くなって 躰がぶるぶる震えだす 輪郭がさらさら崩れ落ちて 風の中へ消えてしまう いつの間にか龍になっている アマツバメたちが鼻先で遊んでいる ああそうだったと思い出したら アークトゥルスが光りはじめた…