新しいアパートに入居し、自転車で走り回る夢

2019年11月10日 また自転車で走り回っている夢を見た。かなりのスピードで移動していて、坂道も高速でぐんぐん登っていた。実家の近くを走っていたかと思えば、まったく知らない街並みを走り抜けたりもしていた。先日ヘルシンキ空港のレストランで出会った不思議な存在感を有するネパール人男性が夢に出てきて、少し話をした。 わたしは(もしかしたら母が)建てられて間もない頑丈な造りのアパートの1階に入居することになっていた。そして、食材の買い出しのため自転車を高速で走らせ、スーパーマーケットで野菜を物色していた。途中、自転車で走り抜けた街並みはまったく見たことのないものだったけれど、どことなく懐かしい感じがした。 夢の中の新しいアパートはまだ内装工事が完成しておらず、壁や柱のコンクリートがむき出しの状態だった。外装やエントランスは大理石が用いられていて、マーブル入りのベージュトーンで統一されていた。部屋の内装もそれと同じ色合いで落ち着いた雰囲気になるようだった。…

エレベーターで上昇して地上に出る夢と未知の乗り物を運転している夢

2019年11月9日 一昨日から昨日にかけて見た夢の断片。 高速エレベーターに乗ってかなりの距離を上昇したが、エレベーターを降りたらそこは地上だった。地下深くに掘られた穴の中を上昇していたらしい。地上にはどこか別の惑星のような風景が広がっていた。足元には地下深くへと続くエレベーターの入口が見えていた。 別のシーンでは、わたしは高速で走る車のような乗り物を運転していた。なだらかな山に囲まれた平原には滑走路のように広い道路が敷かれていて、運転席からはまるで静かな水面上を猛スピードで滑っているように感じられた。確かその夢には母がいたはずだが、どんなやり取りをしたかは忘れてしまった。 また別の夢では、わたしは大きな古い日本家屋の一部に間借りをすることになっていた。部屋からは手入れの行き届いた和風庭園が見えた。大家だという大きな体をした中年男性が、何かの修理をするからと断りもなくわたしの部屋に上がって天井を開け始めたので、わたしは怒って彼に抗議をしていた。 他にもいくつもの夢を見たが、ほとんど忘れてしまった。古い知人の男性が何度か夢に出てきたのだけは覚えている。…

自分で自分を引き受けている人は、自分と他者との境界を自覚している

2019年11月2日 母が大きな手術を受けて入院している中、多くの人が「心配」「気がかり」という理由をつけて病人に近づいては、身勝手に感情を押しつけようとするのを目のあたりにしている。彼らはただ自分の不安を解消したいだけだ。自らの暴力性に無自覚な人がいかに多いことか。 当人の状態を顧みず、状況を静かに見守るということができずに、自分勝手に他者の領域へ押し入るのはただの暴力でしかない。自分がない=自分で自分の感情と感覚を引き受けられない彼らは、自分と他者との境界も持たず、自分自身の不安や恐れをそのまま他者に押しつけようとする。 本当に誰かのことを気にかけている人は、自分の都合を相手に押しつけはしないし、相手にとって負担になるようなことはしないよう配慮するだろう。そうして相手の状態と行動を静かに尊重している。自分で自分を引き受けている人は、自分と他者との境界を自覚している。 自分がない人とは、意志を持たない人のことだ。意志を持たない人は、隙あらば他者や何かにくっついて同化しようとする。人に取り憑く幽霊というのは、意志を持たずにただ時の流れに運ばれるだけの存在のことではないか。 「…

宮沢賢治『よだかの星』についての対話

2019年10月24日 一昨日、友人との対話の中で「わたしが恒星だったとしても、よだかから『私をあなたのところへ連れてって下さい。灼けて死んでもかまいません。』と頼まれたら、無理だと断る。」と話したことを思い出した。 なぜ断るかを後から考えてみたが、それは、よだかが抜け出せずにいる(執着している)虚構ドラマの補助は、わたし(恒星)がやることではないからだ。恒星から見れば、よだかも鷹もめじろも川せみも蜂雀もひとつのものだろうし、よだかの思い(個性)と他との違いなど見えないだろう。 よだかは、現実と名づけられた自らが作り出す虚構ドラマに執着している存在であり、恒星とはそういう虚構世界の外側にいる存在だ。よだかは、自らの意志でドラマを脱し、自ら燃えて星になるしかない。 宮沢賢治の『よだかの星』は恒星化する存在について書かれた話だ。…

ニューヨークに似た街と華やかな装いの人々、ピーコックグリーンのコートの夢

2019年10月19日 今朝、目覚め際に見た夢。ニューヨークのダウンタウン(トライベッカあたり)に似た街で、わたしはファッション業界で働く華やかな衣装を纏った人々に囲まれていた。わたしはウールかカシミヤで作られた着心地のよいピーコックグリーンのコートを着ていた。 大きなイベントを終えた帰り道、他の人たちと別れて駅で電車を乗り換えようとしていたら、駅員が「冷たい飲みものか温かい飲みもののどちらがいい?」とマイクを通して尋ねてきた。「私に聞いているの?」と尋ねたら駅員は「そうだ」と頷いて、わたしを駅のオフィスに案内した。そこには別の女性たちがいて、私に何か手伝ってほしいのだという。 彼女たちに見せられた図のようなものには、色とりどりの球体がたくさん描かれていた。どの球体も天体を表しているらしい。「たとえばこれは土星の色」と言われた球体は、茶色がかった淡いコーラルピンクだった。わたしは、図の中にターコイズブルーの球体を見つけて「これは天王星かな」などと思っていた。複数の色が混ざった球体もあったし、いずれもとてもきれいだった。 別のシーンでは、わたしは華やかな装いの人々で賑わうレストラ…

「心配」という他者の投影と都合からは黙って離れる

2019年10月17日 他者や状況を思いどおりにしたい人ほど「心配」という言葉とやり方で自身の不安を他者に投影し、発散しようとする。「心配だ」と言う人を見ていると、実際に自ら動いて助けよう、肩代わりしてやろうなどという気はないことが殆どだ。なので、「心配」をする人とは距離を置いて放っておくのがいい。 むやみに「心配」する人は、他者と自分の区別がついていないし、自分不在の状態にあることが多い。たとえば「他者に~であってほしい」という「思い」も実のところは自分の都合であり、期待であるということが見えていない。そういう自覚がない人には事実を語っても通じない(受け入れない)ので、黙って離れるのが一番だ。…

自分というこだわりを捨てるとすべてが自分になる

2019年10月16日 他者に影響を及ぼしたいという自我の欲求から離脱すると本当に楽だし、何より自由だ。自分(個性)というこだわりを捨てれば、宇宙のすべてが自分になる。それは、すべてを含む大きな自分になることであり、高次な感情を受け取る管になるということ。 既存の環境の中で役に立とうとしない、期待にこたえない、実用的であろうとしない。それはまた何に対しても期待をしないことであり、自分以外の何にも依存しないということだ。…

自分という手癖を捨てて意志を追うこと

2019年10月16日 3歳から高校を卒業するまで割と厳しいピアノレッスンを受けていた中で「これ(この音)が正しい」という教えを受けたことは多々あったが、「こういう音を出したい」と自ら強く意図したことはなかった。残念ながらそういう機会を与えてもらえなかったし、自らもその状態には到達できなかった。 だが、わたしは「音とは意志である」ということをどこかでわかっていた。だから14歳にしてイーヴォ・ポゴレリチに否応なしに惹かれ、彼の音を繰り返し聴いていたのだ。 「音に感情をこめろ」という指導は多々受けたが、「高位感情をダイレクトに通す管になれ」とは教えられなかった。やがてわたしは教えを受けていたピアノ教師(彼女が「ポゴレリチは聞かない方がいい」と言ったことは今でも覚えている)のことを敬遠するようになり、彼女の指示を「つまらない」と感じるようになった。 今改めて実感する。あの頃、わたしは痛烈に「つまらない」と感じ、嫌悪すら抱いていた。しかし、わたしは、母と教師という自己投影タッグ(そして、きっとそれは彼女たちの祖先から脈々と続いてきた連鎖)の影響から逃げ出すことができなかった。そうしてピ…