時は未来から過去へと流れる
過去の経験や経緯を振り返ると、やっぱり時というのは未来から過去へと流れているように感じられる。一つのところにあるすべての時がほどけていくようだ。この一瞬の中に無数の時がある。 過去を振り返る(そうしてそのたびに過去を今ここで作り出す)ことによって時間というものを実感するのだから、時が未来から過去へ向かって流れているように感じられるのは当たり前のことだ。今、今、今だけに専念しているときには時間の感覚は消失している。…
過去の経験や経緯を振り返ると、やっぱり時というのは未来から過去へと流れているように感じられる。一つのところにあるすべての時がほどけていくようだ。この一瞬の中に無数の時がある。 過去を振り返る(そうしてそのたびに過去を今ここで作り出す)ことによって時間というものを実感するのだから、時が未来から過去へ向かって流れているように感じられるのは当たり前のことだ。今、今、今だけに専念しているときには時間の感覚は消失している。…
夢の中で、茶色い猫を抱いたまま、片手でハンドルを握って自転車でトンネルの中を走っていた。途中、コーギーのミックスのような犬が捨てられているのを見つけて自転車をとめた。人懐っこい大きな目をしたかわいい犬だった。知らない女性が現れて犬を助けようとしたので、わたしも協力することにした。女性は、その犬を安全な場所へと運ぶため透明なビニール袋に入れた。 そうして、わたしたちは一緒に移動した。公共休憩所のような場所へ辿り着き、わたしたちは犬を袋から出した。薄暗くて温かい、絨毯敷の空間だった。そこには二頭の番犬あるいは狛犬のような生き物がいて、こちらの様子を伺っていた。二頭とも大型犬ほどの大きさで、身体の毛がところどころ抜けていたか無い状態で肌が露出しており、顔はシーサーのようだった。わたしたちのことを少し警戒しているようではあったが、攻撃してくる様子はなかった。 女性が袋から出した犬の身体をチェックした後、何かの粉末をに取りだして計量した。水に混ぜて犬に飲ませるようだった。わたしたちは、保護した犬が番犬(狛犬)に攻撃されないよう慎重に動いた。二頭の番犬のうちの一頭が立ち上がってこちらの様子を見…
7年前の今日、わたしはポルトを訪れていた。わたしはあの時初めて”一人で”飛行機に乗って日本国外へと旅をした。現地では友人たちが待ってくれていたけれど、”一人で欧州へ行く”という経験にかなり興奮し、また緊張もしていたように思う。もう随分昔のことのような気もするし、つい先日のことのようにも感じられる。 あのポルトガルへの旅がなければ、わたしは日本での生活や仕事や関係を全部投げ捨てて終わりにすることはなかったかもしれないし、チェコに辿り着くこともなかったかもしれない。初めて訪れたポルトガルで、わたしは「何者でもないただのわたしとして、何もなさぬままただ存在していてもいい」という安心を初めて味わったのだった。 時折こうして振り返ると、人はやはり自分が望んだとおりになるのだと実感する。自覚していようがいまいが、わたしたちは、自らが望み、求め、意図した状態になっていく。そして、そしうした内側からの望みや意図に呼応する、場や、人や、環境が外側に現れる。現在の自分は、過去の自分の望みそのものであり、自らが意図した結果そのものだ。…
Water Mirror, Tábor, August 2021 6x6 Driftwood Pinhole Camera Kodak Ektar 100…
海へ行く夢を見た。わたしは海のそばに建つ古い大きな家屋のような宿泊施設に滞在していた。古い友人と名前も思い出せない昔の知人、そして母も一緒にいた気がする。いくつかの夢の記憶が混ざりあって混沌としている。 ある場面で、わたしはさくらを抱いて海の方へ向かって歩いていた。海へと続く道はなだらかな下り坂だった。空はよく晴れていて、暑くも寒くもなく心地よい気候だった。さくらはなかなか重くて抱えて歩くのは大変だったが、苦痛ではなかった。 別の夢では、わたしは母とともに”東京”の街を移動していた。彼女は”秋葉原駅”に行くと言っていた。夢の中の”秋葉原駅”は巨大なターミナル駅で、ハブ空港ほどもある近未来的な大きな建物からそこらじゅうへ路線が繋がっていた。わたしたちはそこへ向かっていた気もするし、既にそこにいたような気もする。 わたしは他にもっと早くて便利な行き方があると話したが、彼女は特定の電車で目的地へ向かいたがった。彼女はその電車の切符かパスを既に持っていたが、わたしは持っていなかった。バックパックの中のパスケースから様々なカードが出てきたが、どれも別の電車用だったので、わたしは切符を買うこ…
3年近くピンホール写真を撮ってきて、投稿したり、時に思わぬメッセージをもらって驚いたり涙したりもしてきて、なんとなくこのところ一つの壁にたどり着いた気がしている。「どう撮るか」など技術的なことではなく、「何を撮るか」、もっと言えば「何を撮らされるのか」ということについての壁。 この「何を撮るか」もっと言えば「何を撮らされるのか」の「何」とは、被写体のことではない。それは形として見ることはできない何かだ。そして、それが一体何なのか、頭で答えを見つけるつもりはない。むしろ、そうしてはならない。 それは、「何に撮らされるのか」ということなのかもしれない。 壁にたどり着いたと書いたが、この壁は超えていくものではなく、今は壁のように見えているけれど、実はゲートなのだと思っている。だから、やっぱり頭で考えて答えを出そうとはせずに、「何を撮るのか」あるいは「何を(に)撮らされるのか」ということを少し意識しながら、とにかく撮り続けていく。…
Waterscape / Memory of Summer, August 2021 6x6 Driftwood Pinhole Camera Rollei RPX 100…
先日ふと思い立って、これまでしばらく自分が撮ったピンホール写真を投稿してきたグループから退会した。数ヶ月前からグループ内の様子が変化してきて、何だか違うなと感じていたので、すっきりした。 今日は「パラレルワールド」という言葉を何度も目にした。次の新月は日食だ。松村潔氏によれば、日食は上位の意識が介入する(そのことにに抵抗をあまり感じない)ポイントであり、タイムラインの方向を変えるレール切り替え装置だという。日食にあわせて飛び込めば、その後は違う世界になる。その動きは既に始まっていると感じる。 > 折り返し点は、それまで継続した視点からするとまさに空虚そのもので、虚脱以外の何ものでもない。空っぽになった時、上位の意識としては、この時に「やっとわたしの言うことを聞く気になったか」と思うが、それに気がつかない人が多い。このインターバル点を無駄にすると、人生はいつも出発点に戻って、何もしていないことに気がつく。付け加えておくと、この折り返し点の空白に、他者の意見などを取り入れたりすると、その人は穢れの人生を進むということにもなる。というのもそれは意図がはっきりわからないのでごまかしたと…