感情についての対話

今日はパートナーと感情について話した。 彼は、感情とは基本的に自分が有する思考に基づく反応であり、反応は自らで選べると語った。実際に彼は、たとえば自分の中に怒りを自覚した時には、そのエネルギーを仕事に投入するそうだ。そうすると、結果的によく集中できて、良い成果が出せるのだと言う。 彼は、そのような自らの感情の扱い方を「コントロール」と言ったが、わたしにはそれはコントロールというよりも、「自己同一化しない術」だと思えた。自らの感情を自覚している時点で、彼は感情と自分を混同していない。だから彼は、感情というエネルギーをその時々の自分にとって活かせる方向性と行動を選択することができるのだろう。 彼が、他者や出来事など、自らの外側にあるものに対して感情的になることは稀だ。そういう意味で、彼は感情的に安定している(本人は「感情が薄い」と言っていたが、そういうことではないだろう)。それは、彼の中にある自他の境界線が明確で、自己投影や自己同一化が少ないからではないかと思う。 彼はまた、どんな感情もそう長くは持続はしない、もし持続するとしたら、それは自分がその感情を掴んでいたいからだ、とも言っ…

怪しい人

「外見からはカメラだとはわかりづらい一台目の流木ピンホールカメラを持ち歩いていると、いつも複数の人から訝し気な目で見られる。三脚付きの怪しい木箱を持ち歩く怪しいアジア人だと思われているかも。」と話したら、友人が「Miroslav Tichýみたいですね。」と言った。そうか、確かにそんな風に映っているのかもしれない。 少し前に、やっぱり三脚を付けた流木ピンホールカメラを持って歩いていたら、子どもたちに囲まれて、おそらくからかわれた(もしくは蔑まれた)のだが、言葉がわからなかったので、彼らの顔をじーっと見つめてしまった。そういえば、ずいぶん前に、夜の銀座でショーウインドウの光が街路樹を赤く染める様に見入ってしまい、夢中で写真を撮っていたら、いきなり近づいてきた知らない男性から「頭おかしいんじゃねーか」と言われたのを思い出した。あの時も、言われたことがよくわからなくて、やっぱりぼーっとしてしまった。 わたし自身はといえば、相手から不当な攻撃さえ受けなければ、どんな風に見られても気にはしない。そもそも、いい場所を見つけて写真を撮っている間にはそんなことは忘れている。ただ、時々チェコ語で「そ…

彼女はどの星へ

Facebookのタイムラインに、昨春に亡くなったある人のアカウントへの投稿が流れてきた。彼女のことが思い浮かぶと、わたしはいつもこの写真を撮った日のことを思い出す。同じく写真好きだった彼女と共に東京タワーの近くを歩きながら撮影した一枚だ。彼女はこの世を去った後に何度かわたしの夢に現れた。そう遠くないうちにまた夢で会うような気がしている。彼女は次にどの星へ向かったのか(向かうつもりなのか)を尋ねてみたい。…

Denebola

それがいかに多くの人々に受け入れられている習わしであっても、自らの生理にとって不自然なことを自分に押しつける必要はない。根拠も思想もない形式(立場)に自分を閉じ込めないことだ。そして、何であれ不自然だと感じたら、正直にそれを認めて、疑うことだ。 ひとつひとつこれをやっていると、世の中ではただの変人として孤立してしまうかもしれないが、他者からどのように見られようと、自分自身が納得して生きることの方がよほど重要だ。…

2021-01-02

母が死んでから、過去のわたしがいかに無自覚なまま他者の思いにあわせて自らの言動を制限していたかが、ますますよく見えるようになった。たとえば「正月は家族で祝うものだ(だから自分もそうしたい)」という彼女の思いこみに応えて帰省していた過去のわたしは、無自覚に自分を形式(立場)の中に閉じ込めていたのだ。 以前に「『冥福』の語源や意味も知らないまま、勝手に冥福を祈って押しつけなられるのは不快だ」とTwitterやFBに書いたことがあった。その起源や由来を自らで調べもせずに、ただそれが慣習だからと機械的に倣うこと、そしてそれを押しつけられることが、わたしには不快なのだと改めて気づいた。 そんなことを思いながらシャワーを浴びている間に、いかに過去の自分が、実は誰のものでもない指向性に支配されていたかを改めて思った。たとえば「わたしは○○が好きだ」と思っていたことの多くは、環境や習慣によって染みついたパターンまたは癖でしかなかった。 過去のわたしは、そうしたただの肉体的な癖による機械的な反応を「これがわたし(の志向性)だ」と思いこんでいただけだ。つまり、”眠ったまま”だったということだ。そして…

Infinite emptiness

昨日から、なんにもない、本当にまったくなんにもないという感覚が再びやってきて、わたしはまたしばし抵抗していた。しかし、どんなに抗おうと、すべては虚無だ。そして、それでいいのだとあきらめた。 自分(世界)はまったくの空虚であるという事実に抗うほど、苦しくなるということが改めてよくわかった。確かにそこにある事実には抵抗しないことだ。 「空虚だ」と気づいたところで、頭の中にアークトゥルスの名が浮かび、突然強い眠気に襲われた。目を閉じるといつもは様々な色の光が点滅したり流動したりするのが見えるが、今日はひたすら真っ暗だった。しばらく暗闇をぼんやり漂っていたら、やがて真っ黒な大きな目がこちらを見ているのが見えた。大きな目はだんだん近づいてきて、わたしはその中に呑み込まれた。赤紫色の光に包まれた中で、ずいぶん昔の記憶のようであり、まったく知らないものでもあるような濡れた石畳の階段の淵で、鈍い光が一瞬虹色に煌めいたのが見えた後、わたしは完全に意識を失った。そのまま一時間ほど眠っていたようだ。 虚無の側にシフトする。自我が抵抗するたびに、こうしてシフトを繰り返していく。 From yest…

2020-12-31

12月31日の夜には、そこらじゅうでたくさんの人たちが花火を打ち上げる。プラハでも、毎年年が変わる頃には、全方向が花火大会状態になっていた。この町でも、待ちきれない人たちが花火を打ち上げ始めた。この時期になるといつもわたしは、野鳥や野生動物たちの安全と無難を祈っている。写真は、近くで打ち上げられた花火のため、飛ぶ方向を急転させたニシコクマルガラスたち。人々が池畔で花火を打ち上げ始めると同時に、たくさんの鴨たちが逃げるように飛び去って行くのも目撃した。…