犬と月

犬を飼っている友人とのやり取りの中で、彼女の夫があまり動物が好きではなく、犬が家の中で自由にするのを長らく許さなかったと聞いた。彼女と娘の訴えにより、彼は最近ようやく譲歩したらしい。彼女と娘が家の中でも犬とたくさん触れ合って遊べるようになったら、犬の表情や態度が大きく変化したとのことだ。 彼女もまた、さくらのことが大好きだと言っていて、さくらがチェコでのびのびと暮らしている様子をいつも喜んでくれている。犬や猫が安心してのびのび暮らせる環境は、不要な抑圧も支配(制御)もなくて、人にとっても確実に快適だよねと話した。 さくらの様子を見ていると、彼女はいつもおもしろいほどにわたしの状態にシンクロしている。たとえわたしの調子がいまいちでも、わたしが自分に無理を強いず、今在る状態を受け入れていると、彼女もまた安定している。先日も書いたように、さくら(犬)は(占星術でいう)月だなと日々実感している。…

情報との自己同一化と中毒性

それがどんな内容であれ、情報に触れ続けるのもまた自分への虐待なのだと思う。外側への反応として生じる機械的な感情ばかりを反復しているうちに、身体も精神も疲れ果てて麻痺してしまうんじゃなかろうか。と、情報との自己同一化と中毒性について思っていた。得た情報も、情報発信という行為も、”自分”ではない。…

語りすぎてはならない

もう何年も前のことだが、突如「語りすぎてはならない」と頭に浮かんだ後、しばらく頭から離れないことがあった。今でもその通りだと思う。語りすぎると、本当なら言葉にはなり得ないはずの本質を覆い隠してしまう。手っ取り早く言語化して片付けようとしてはならない。…

Sunset sky, November 2020

Sunset sky 6×6 Driftwood pinhole camera Kodak Ektar 100 カラーフィルムで撮影したピンホール写真を眺めながら、太陽は黄色や赤で描かなければならないなどということはないし、空が青でなければならないということもないのだという実は当たり前のようなことを改めて思う。 犬や猫は二色型色覚だというし、四種の錐体細胞を有する鳥類は紫外線を感知しているという。たとえ同じ種であっても色覚には微妙な個別差があってそれぞれに見えている色は異なるのだろう。鳥の色覚を通して見える世界を想像すると楽しい。…

水鳥の背に浮かんでいた模様

夢の中に出てきた水鳥の背に描かれていた模様が気になっている。民家の前を流れる用水路に丸いものが浮かんでいて、風船かと思ったら、見たこともない水鳥だった。顔と色はカワラバトに似ていたが、身体が真ん丸だった。濃灰色の背中に、何かの記号のようにも見える紫色の模様がくっきりと浮かんでいた。さらにその用水路には梟もいたが、よく見るとそれは茶色い犬だった。犬は嬉しそうに水に浸かっていた。 別の夢の中では、わたしは自転車で山口県西部あたりから兵庫県まで移動しようとしていた。計算では8時間ほどで移動できるようだった。途中通過した古い旅館のような場所には、わたしの他にも自転車でかなりの距離を移動している女性たちがいた。また、そこでは何か祭事が行われていたようで、男性たちが大きな特別な太鼓を慎重に運びながら階段を下っていた。このところ夢の中ではよく複数の女性たちが(またはわたしも彼女たちとともに)旅をしている。 さらに別の夢の中で、わたしは細い路地がくねくねと入り組む古い町並みを歩いていた。 複数の層が重なったような青空から天気雨が降ってきたが、なぜか濡れなかった。 宿泊先のホテルで髪を乾かそうとした…

犬を通して月を対象化する

松村潔氏は著書や雑記の中で月を犬にたとえている。そして、月から距離を持ち、対象化し、月を自分とは同一化しないためには、犬(や猫)を飼うのはいい方法だと書いていた。さくらとともに暮らす中で、確かにそうだと実感している。 先日読んだ『パラダイムシフト』という漫画の中に「心はインナーチャイルドですらない、心は犬や猫のように非論理的」という箇所があった。これも「月は犬」だと思えば納得だ。 わたしは毎朝さくらに起こされる。そしてすぐに朝の散歩、朝ごはん、午後の散歩、夕ご飯、夜の散歩。それらの合間に、遊び相手、ブラッシング、肉球や爪の手入れ、歯磨き、寝床やマットの掃除と洗濯、シャンプー等々、あれやこれやと、さくらの世話をしながら、同時に、ああ月なんだなと思っている。…

夢の中だけで会う懐かしい人たち

相変わらずわたしは夢の中で旅をしている。ここ数日は、乗り物に乗って移動している場面がよく記憶に残っている。バスだったり電車だったりと、乗り物はその時々で変わる。そして、わたはいつも懐かしい人とともにいる。夢の中ではわたしは彼らのことをよく知っているようだが、実際には見たこともない人たちばかりだ。…