彼らは自らの影に支配されている

日本に滞在している間も、周囲の人たちの「おはなし」に巻き込まれなくなった。彼らの多くは無自覚なまま「こんなはずではなかったゲーム」を繰り返している。そうして自分自身を殺し、自他を傷め続けている。彼らが「おはなし」を繰り出してきても、わたしの感情はまったく反応しなくなった。 彼らはいつも無自覚に他者に期待している。彼らは他者が自分に共感することを求めている。そうして、他者から感情を吸い取とることで自我を保っている。彼らは自らの影を認めたくないだけだ。そうして自分自身を拒絶しているから、常に外に求め続ける。彼らは無自覚なまま自らの影に支配されている。 認めたくない事実、つまり自分の影を「ある」と認めるだけで、それまで無いものにして殺していた自分が生きてくるし、そうすれば他者に共感を求める必要もなくなるのだが、彼らはそうはせずに、「おはなし」を繰り返すことを自ら選び続けている。それが彼らの選択なのだから、放っておくだけだ。…

思いがけない再会

昨日は中高校時代の同級生と四半世紀ぶりに再会した。彼女から「Rちゃんは、お母さんから虐待を受けていたよね。Rちゃん本人はそう認識していなかったと思うけれど、あれは虐待だったよ。」と言われ、当時のわたしの実状に気づいていた人がいたのかと驚いた。そして彼女は「あんなにも悩んで苦しんでいたRちゃんが、今はこうして幸せに生きていてくれて本当に嬉しい。」と涙をこぼした。 母から受けた暴力も、中高校で受けた嫌がらせも、わたしにとってはまるで過去世のようで、普段はすっかり忘れている。昨日、彼女との対話の中で「そういえばそんなこともあった」とたくさんのことを思い出した。そして、新鮮な気分で久しぶりに他者の前で自分のこれまでの経緯を語った。 そして今日は、ある人と四年ぶりに再会した。まさか彼と日本で再会することになるとは思ってもみなかった。彼は、初対面の時から古い友人同士のような感覚を覚える人だった。今日もまた、まるでずっと昔から知る者同士のような気分で、互いの近況や、この四年の間に起きたことなどを話した。四年前にもわたしたちは、互いの越し方や家族・家系のこと、どんな風に生きてきて、どんなことを考え…

今年の春に死んだ知人に会う夢

今日は目覚める前に見ていた夢の中で、今年の春に亡くなった知人に会った。知らない街の飲食店で彼女とばったり遭遇した。彼女は最近そのあたりに引っ越してきたばかりだと言っていた。そして、彼女はとても元気そうで、屈託のないいい笑顔をしていた。わたしたちは再会を喜んで店の外で立ち話をした。連絡先を交換することになり、先に他の人たちが彼女の手帳に電話番号やメールアドレスを書いた。しかし、なぜかわたしは、自分の連絡先をうまく書けなかった。電話番号を書こうとしても、なぜか間違えてしまった。チェコのID番号も書こうとしていたが、番号をきちんと思い出せなかった。…

赤いドレスを纏う夢

赤いドレスを着る夢を見た。わたしは自分の新居だという知らない家にいた。とても広い家で、友人/知人だという何人かの知らない人たちが共にいた。わたしは、押し入れの中にたくさんの服があるけれど、自分はもう着ないものばかりなので、誰かにあげようと思っていると話していた。そして、少し高いところに設置されている押し入れに梯子をかけようと思っているのだがどう思う?と、そばにいる男性に話しかけていた。隣にいた女性が「ほら、あの赤いドレス、わたしがもらってもいい?」と言うので、押し入れの中から赤いドレスをいくつか取り出した。わたしは、豪華なフリルがアシンメトリーにあしらわれた真っ赤なドレスを着て、傍にいた男性に「どう?」と笑顔で尋ねた。肩と胸元が大きく開いたそのドレスは、わたしが長らく身に着ていないタイプの服だった。普段の装いとはまったく異なるドレスを纏うのはいい気分だった。…

Zerkalo, Zrcadlo, Mirror

Alexey Titarenko [http://www.alexeytitarenko.com/]の写真を眺めながら、Andrei Tarkovskyの映画『Zerkalo(Mirror)』の中の映像をまた思い出していた。そして、Alexey Titarenkoが所属していたレニングラードの写真家グループの名称もまた「Zerkalo」だったことを今になって知った。 わたしが少しずつ作り続けている夢のイメージをモチーフにした詩のシリーズ名は『Zrcadlo(鏡)』だ。ずいぶん前に「あなただけの絵」を描くという人に描いてもらった絵のタイトルが『水鏡』だったことを思い出す。わたしは昔からよく夢の中で山や森に囲まれた静かな水面を見ていた。水面はいつも夜空を映していた。…

アル・リシャの夢

わたしは、TwitterもFacebookも普段は少ない特定の人のTLしか見ていない。しかし、時々は気になる人々のTLもチェックしている。また、Twitterではキーワード検索を利用して普段は目にしない人のTLを見ることもある。昨夜はいわゆる陰謀論を支持する人たちのツイートを見ていた。そうしながら、オウム真理教事件のことを思い出していた。 世界を救うとか、社会を変えるとか以前に、わたしたちはまず自らを救う必要がある。善と悪という二元化の根底にあるのは、自分で自分を救うことができない=自分で自分(の影)を認めることができないが故の不安と苦しみではないか。彼らが闘っている「敵」は、彼ら自身の影だろう。 そんなことを思っていたからか、昨夜は眠る前に「アル・リシャ」という名を思い出し、そのまま眠りに入った。 昨夜から今日にかけてはまたたくさんの夢を見たが、途中でパートナーやさくらに何度か起こされたので、ほとんど忘れてしまった。覚えているのは、海のすぐそばに建つ宿泊施設のような場所にいたシーンだ。わたしは大きな窓から海を一望できる大浴場にいた。海は穏やかで、空は淡く霞んでいた。浴場の窓は内…

怪奇現象が起きる夢と、霊や神との交信を始める夢

今日見た夢の中で、わたしは知らない女性と二人で、知らない宿に宿泊していた。畳の部屋には小さな座卓が置かれていた。電気を消して寝ている間に、座卓の上の電話から「ピー」という電子音が聞こえた。その音で起きたわたしたちは、これは怪奇現象だねと話し、どうしたものだろうと相談しあった。部屋にはどことなくおどろおどろしい気配が漂っていたけれど、わたしはまったく怖くはなかった。わたしは「わたしたちは疲れていて休みたいから、睡眠の邪魔をしないでくれ!」と見えない何かに向かって大きな声で訴えた。その後シーンは切り替わり、わたしは大きな古い木造建築の中にいた。中は劇場になっていて、これから何か舞台が始まるようだった。そこでもやはり、いくつかの怪奇現象が起きた。わたしは、その原因を探ろうとして、建物の二階部分に古い廟のようなものが放置されているのを見つけた。厚手の紙で作られた古い証明書のようなものを誰かが持ってきた。そこには「祀られていた神の御霊は既に移転された」と書かれていた。しかし、わたしは、そこにはまだ何か残っていると感じた。「やれやれ、仕方ない、ひと仕事するか」と、霊だか神だかとの交信を始める決意を…

自覚的に”作品”を作り続けていくこと

自我の「おはなし=幻想」の都合に合わせて事実や自分(身体)を捻じ曲げるのではなく、自覚的に作品化してしまえばいい。形はなんでもいい。誰かに見せたり発表したりする必要もない。自覚的に形にするとそれは殻になり、気づけば自分はそこから抜け出している。そうやってどんどん小さな自分から脱皮して、自分を大きくしていく。幻想も、影も、どんどん吞み込んでいく。自己想起、自己超越とはそういうことだ。自分を探すのではなく、何者かになるのでもなく、一切の何でもないまま愉快な状態を自覚的に継続していくこと。…