自分で自分を引き受けている人は、自分と他者との境界を自覚している

2019年11月2日 母が大きな手術を受けて入院している中、多くの人が「心配」「気がかり」という理由をつけて病人に近づいては、身勝手に感情を押しつけようとするのを目のあたりにしている。彼らはただ自分の不安を解消したいだけだ。自らの暴力性に無自覚な人がいかに多いことか。 当人の状態を顧みず、状況を静かに見守るということができずに、自分勝手に他者の領域へ押し入るのはただの暴力でしかない。自分がない=自分で自分の感情と感覚を引き受けられない彼らは、自分と他者との境界も持たず、自分自身の不安や恐れをそのまま他者に押しつけようとする。 本当に誰かのことを気にかけている人は、自分の都合を相手に押しつけはしないし、相手にとって負担になるようなことはしないよう配慮するだろう。そうして相手の状態と行動を静かに尊重している。自分で自分を引き受けている人は、自分と他者との境界を自覚している。 自分がない人とは、意志を持たない人のことだ。意志を持たない人は、隙あらば他者や何かにくっついて同化しようとする。人に取り憑く幽霊というのは、意志を持たずにただ時の流れに運ばれるだけの存在のことではないか。 「…

宮沢賢治『よだかの星』についての対話

2019年10月24日 一昨日、友人との対話の中で「わたしが恒星だったとしても、よだかから『私をあなたのところへ連れてって下さい。灼けて死んでもかまいません。』と頼まれたら、無理だと断る。」と話したことを思い出した。 なぜ断るかを後から考えてみたが、それは、よだかが抜け出せずにいる(執着している)虚構ドラマの補助は、わたし(恒星)がやることではないからだ。恒星から見れば、よだかも鷹もめじろも川せみも蜂雀もひとつのものだろうし、よだかの思い(個性)と他との違いなど見えないだろう。 よだかは、現実と名づけられた自らが作り出す虚構ドラマに執着している存在であり、恒星とはそういう虚構世界の外側にいる存在だ。よだかは、自らの意志でドラマを脱し、自ら燃えて星になるしかない。 宮沢賢治の『よだかの星』は恒星化する存在について書かれた話だ。…

ニューヨークに似た街と華やかな装いの人々、ピーコックグリーンのコートの夢

2019年10月19日 今朝、目覚め際に見た夢。ニューヨークのダウンタウン(トライベッカあたり)に似た街で、わたしはファッション業界で働く華やかな衣装を纏った人々に囲まれていた。わたしはウールかカシミヤで作られた着心地のよいピーコックグリーンのコートを着ていた。 大きなイベントを終えた帰り道、他の人たちと別れて駅で電車を乗り換えようとしていたら、駅員が「冷たい飲みものか温かい飲みもののどちらがいい?」とマイクを通して尋ねてきた。「私に聞いているの?」と尋ねたら駅員は「そうだ」と頷いて、わたしを駅のオフィスに案内した。そこには別の女性たちがいて、私に何か手伝ってほしいのだという。 彼女たちに見せられた図のようなものには、色とりどりの球体がたくさん描かれていた。どの球体も天体を表しているらしい。「たとえばこれは土星の色」と言われた球体は、茶色がかった淡いコーラルピンクだった。わたしは、図の中にターコイズブルーの球体を見つけて「これは天王星かな」などと思っていた。複数の色が混ざった球体もあったし、いずれもとてもきれいだった。 別のシーンでは、わたしは華やかな装いの人々で賑わうレストラ…

「心配」という他者の投影と都合からは黙って離れる

2019年10月17日 他者や状況を思いどおりにしたい人ほど「心配」という言葉とやり方で自身の不安を他者に投影し、発散しようとする。「心配だ」と言う人を見ていると、実際に自ら動いて助けよう、肩代わりしてやろうなどという気はないことが殆どだ。なので、「心配」をする人とは距離を置いて放っておくのがいい。 むやみに「心配」する人は、他者と自分の区別がついていないし、自分不在の状態にあることが多い。たとえば「他者に~であってほしい」という「思い」も実のところは自分の都合であり、期待であるということが見えていない。そういう自覚がない人には事実を語っても通じない(受け入れない)ので、黙って離れるのが一番だ。…

自分というこだわりを捨てるとすべてが自分になる

2019年10月16日 他者に影響を及ぼしたいという自我の欲求から離脱すると本当に楽だし、何より自由だ。自分(個性)というこだわりを捨てれば、宇宙のすべてが自分になる。それは、すべてを含む大きな自分になることであり、高次な感情を受け取る管になるということ。 既存の環境の中で役に立とうとしない、期待にこたえない、実用的であろうとしない。それはまた何に対しても期待をしないことであり、自分以外の何にも依存しないということだ。…

自分という手癖を捨てて意志を追うこと

2019年10月16日 3歳から高校を卒業するまで割と厳しいピアノレッスンを受けていた中で「これ(この音)が正しい」という教えを受けたことは多々あったが、「こういう音を出したい」と自ら強く意図したことはなかった。残念ながらそういう機会を与えてもらえなかったし、自らもその状態には到達できなかった。 だが、わたしは「音とは意志である」ということをどこかでわかっていた。だから14歳にしてイーヴォ・ポゴレリチに否応なしに惹かれ、彼の音を繰り返し聴いていたのだ。 「音に感情をこめろ」という指導は多々受けたが、「高位感情をダイレクトに通す管になれ」とは教えられなかった。やがてわたしは教えを受けていたピアノ教師(彼女が「ポゴレリチは聞かない方がいい」と言ったことは今でも覚えている)のことを敬遠するようになり、彼女の指示を「つまらない」と感じるようになった。 今改めて実感する。あの頃、わたしは痛烈に「つまらない」と感じ、嫌悪すら抱いていた。しかし、わたしは、母と教師という自己投影タッグ(そして、きっとそれは彼女たちの祖先から脈々と続いてきた連鎖)の影響から逃げ出すことができなかった。そうしてピ…

夢の中で訪れた古い喫茶店のバタートースト

2019年10月12日 夢の中で訪れた古い喫茶店は尖った屋根を持つ建物の一階にあり、年季の入ったドアを開けると、中では年配の女性二人が切り盛りしていて、食事メニューがたくさんあった。ハヤシライスだったかビーフシチューだったかと一緒に出された、ハムエッグが載った薄切りパンのバタートーストがとても美味しかった。あのトーストを実際に食べたい。…

ドラマティックな夕空と、天頂に浮かんだ細い三日月、そして母が証明写真を撮るという夢

2019年10月7日 今朝、目覚め際に見た夢。昔の実家(造りは実物とは少し違っていた)の縁側から見えた空があまりにドラマティックで、わたしは写真を撮りに行こうとしていた。日暮れ後の薄暗い空に驚くほど大きな入道雲が出ていて、その雲の縁が雷に照らされて光っていた。まるで空に大きな光の曲線が描き出されたかのようだった。 出かけようと向かった玄関に、知らない人の靴が無造作に転がっていた。それは、女性用パンプスと子ども用の靴だった。「来客でもいるのかな」と思いながら、それらの靴をきちんと並べ直して外へ出た。玄関を出て空を見上げたら、ちょうど天頂のあたりだけ雲が切れていて、細い三日月がくっきりと浮かんでいた。言葉にならないほどきれいだった。 後から母も外に出てきたので「写真を撮ってくるよ」と伝えた。母は「これから必要になるからパスポート用の証明写真を撮ってくる」と言って近所の家へ向かった。「あなたも必要かと思ったけれど、必要ないね」と言われ、わたしは「現在手元にあるパスポートはまだ期限は切れていないな」と思っていた。 証明写真の撮影はすぐに済み、女性が撮影金額を提示してきた。びっくりするほ…