時間という幻想

2019年11月16日 過ぎたことはどんどん別世界(前世)になっていくので、ふとした拍子に「あの出来事は〇〇年前の今日だった」などと気づくといつも不思議な感覚に陥る。つい先日のようでありながら、はるか遠い昔のこと(または誰かの身に起きたこと)のようだ。肉体を超えれば時間など無いのだからその感覚は当然のことだけれど。 プラハの街を歩いていると時間の感覚が消えていく。迷い込んだ路地の突き当りから、ふと見上げた劇場の窓に映る影から、雨に濡れて転がる外れた石畳の下から、時がほどけていく。144年前にこの街で生まれたリルケも、232年前に交響曲第38番「プラハ」を作曲したモーツァルトも、420年前にティコ・ブラーエに呼ばれてこの街へやってきたケプラーも、604年前に処刑されたヤン・フスも、ここでは今なおその気配をありありと漂わせている。…

真っ白な直方体の菓子を食べる夢と足の手術跡を見せる夢、大理石の階段を降りていくビジョン

2019年11月16日 真っ白な直方体の菓子を食べる夢を見た。ティッシュボックスより一回り大きいぐらいの、中にたくさん空気を含んだムースのような菓子だった。あまりに美味しくてスプーンを持つ手が止まらず、カロリーをちょっと気にしながら二つ目もぺろりと食べてしまった。夢の中でわたしは誕生日を迎えたことになっていた。 自分の身体に小さな手術跡があるという夢も見た。確か足の指か甲あたりにその傷跡はあり、誰かからそれについて尋ねられたので「ここだよ」と見せていた。手術といっても怪我や病気を治療するためではなく、何か別の理由で受けたもののようだった。 以前近所に住んでいた知人夫婦が出てくる夢も見た。小さな敷地に建てられた妙に縦に長い不思議な形をした建物を見ながら、彼らが以前そこに住んでいたというような話をしていた。建物の中は工事用の鉄パイプがびっしりと張りめぐらされていて、とても生活ができる空間には見えなかった。 朝に一度目を覚ましたが、大理石でできた階段を降りていくビジョンを追いっているうちにまた眠ってしまっていた。装飾が施された手摺りに光があたり、階段に美しい影を落としていた。いつか…

自らで時間体験を生み出すには

2019年11月12日 現実とは向こうから自動的にやってくるものだと思いこんでいる限り、人は自ら未来を作り出すことはできない。無自覚に執着している都合が作り出す機械的な繰り返しが現実だと思いこんでいる限り、人は真に生きることはない。…

意図をもって現実を創造する

2019年11月12日 現実とは外側を通して見ている内側のことであり、事実とは異なるものだ。それは感覚、ゆらぎ、動き、流れ。リアリティはいつでも内側にある。 現実=内側のリアルは、その人の状態と都合によって変化する。人は都合に合わせて(半ば無意識に)現実を編集する。そこで起きやすいのが事実と現実の混同だろう。都合との無自覚な同一化は、機械的な感情・思考の繰り返しを通して事実をも歪めてしまう。 事実と現実は異なるものだということを明らかにした上で、事実を事実として眺め、意図をもって現実を創造していくことだ。そういう在り方・生き方は身体的にも精神的にも愉快だ。…

新しいアパートに入居し、自転車で走り回る夢

2019年11月10日 また自転車で走り回っている夢を見た。かなりのスピードで移動していて、坂道も高速でぐんぐん登っていた。実家の近くを走っていたかと思えば、まったく知らない街並みを走り抜けたりもしていた。先日ヘルシンキ空港のレストランで出会った不思議な存在感を有するネパール人男性が夢に出てきて、少し話をした。 わたしは(もしかしたら母が)建てられて間もない頑丈な造りのアパートの1階に入居することになっていた。そして、食材の買い出しのため自転車を高速で走らせ、スーパーマーケットで野菜を物色していた。途中、自転車で走り抜けた街並みはまったく見たことのないものだったけれど、どことなく懐かしい感じがした。 夢の中の新しいアパートはまだ内装工事が完成しておらず、壁や柱のコンクリートがむき出しの状態だった。外装やエントランスは大理石が用いられていて、マーブル入りのベージュトーンで統一されていた。部屋の内装もそれと同じ色合いで落ち着いた雰囲気になるようだった。…

エレベーターで上昇して地上に出る夢と未知の乗り物を運転している夢

2019年11月9日 一昨日から昨日にかけて見た夢の断片。 高速エレベーターに乗ってかなりの距離を上昇したが、エレベーターを降りたらそこは地上だった。地下深くに掘られた穴の中を上昇していたらしい。地上にはどこか別の惑星のような風景が広がっていた。足元には地下深くへと続くエレベーターの入口が見えていた。 別のシーンでは、わたしは高速で走る車のような乗り物を運転していた。なだらかな山に囲まれた平原には滑走路のように広い道路が敷かれていて、運転席からはまるで静かな水面上を猛スピードで滑っているように感じられた。確かその夢には母がいたはずだが、どんなやり取りをしたかは忘れてしまった。 また別の夢では、わたしは大きな古い日本家屋の一部に間借りをすることになっていた。部屋からは手入れの行き届いた和風庭園が見えた。大家だという大きな体をした中年男性が、何かの修理をするからと断りもなくわたしの部屋に上がって天井を開け始めたので、わたしは怒って彼に抗議をしていた。 他にもいくつもの夢を見たが、ほとんど忘れてしまった。古い知人の男性が何度か夢に出てきたのだけは覚えている。…

自分で自分を引き受けている人は、自分と他者との境界を自覚している

2019年11月2日 母が大きな手術を受けて入院している中、多くの人が「心配」「気がかり」という理由をつけて病人に近づいては、身勝手に感情を押しつけようとするのを目のあたりにしている。彼らはただ自分の不安を解消したいだけだ。自らの暴力性に無自覚な人がいかに多いことか。 当人の状態を顧みず、状況を静かに見守るということができずに、自分勝手に他者の領域へ押し入るのはただの暴力でしかない。自分がない=自分で自分の感情と感覚を引き受けられない彼らは、自分と他者との境界も持たず、自分自身の不安や恐れをそのまま他者に押しつけようとする。 本当に誰かのことを気にかけている人は、自分の都合を相手に押しつけはしないし、相手にとって負担になるようなことはしないよう配慮するだろう。そうして相手の状態と行動を静かに尊重している。自分で自分を引き受けている人は、自分と他者との境界を自覚している。 自分がない人とは、意志を持たない人のことだ。意志を持たない人は、隙あらば他者や何かにくっついて同化しようとする。人に取り憑く幽霊というのは、意志を持たずにただ時の流れに運ばれるだけの存在のことではないか。 「…

宮沢賢治『よだかの星』についての対話

2019年10月24日 一昨日、友人との対話の中で「わたしが恒星だったとしても、よだかから『私をあなたのところへ連れてって下さい。灼けて死んでもかまいません。』と頼まれたら、無理だと断る。」と話したことを思い出した。 なぜ断るかを後から考えてみたが、それは、よだかが抜け出せずにいる(執着している)虚構ドラマの補助は、わたし(恒星)がやることではないからだ。恒星から見れば、よだかも鷹もめじろも川せみも蜂雀もひとつのものだろうし、よだかの思い(個性)と他との違いなど見えないだろう。 よだかは、現実と名づけられた自らが作り出す虚構ドラマに執着している存在であり、恒星とはそういう虚構世界の外側にいる存在だ。よだかは、自らの意志でドラマを脱し、自ら燃えて星になるしかない。 宮沢賢治の『よだかの星』は恒星化する存在について書かれた話だ。…