パステル画8枚目

8枚目は、夕暮れ時の本栖湖を描いた。雲の形や様子にも、影になっている山や島や薮にも、山の背後から射し込む光にも、とにかく苦戦した。最後までまったく思いどおりにはならなかったけれど、終わりが来たので手を止めた。これも一練習である。 絵を描く準備と、描き終えた後の掃除に時間がかかるので、ちょっと手間だなと感じるけれど、描いている間はひたすら没頭していてあっという間に何時間も過ぎている。他に何もしなくていい状況だったら、延々と描いて練習し続けていられそうだ。 これまで描いた絵はどれも自分ではまったく思うように描けていないのだけれど、多くの友人知人たちから褒められたり、喜ばれたりして、驚いている。これは本当に予想していなかった展開。愉しいし、嬉しいし、どんどん練習していこう。…

朝霧高原で出逢った人と

前回木星が魚座を運行していた頃、わたしはたまたま訪れた本栖湖と朝霧高原、浅間大社がすっかり気に入り、それからは年に何度もあの辺りを訪ねていた。特に本栖湖の水の色と気配が大好きだった。 あの頃朝霧高原で出逢った人と、半年ほど前からメッセージのやり取りが再開して、最近もよく話をしている。造形作家であり、アートの指導もしているその人に、先週からわたしが描いた絵を見てもらっている。彼は、わたしが絵を描くこと、そして写真や言葉をとおして何をやりたいのか、どこへ向かいたいのかを理解しているので、絵を見せて話すのが楽しいし、アドバイスも的確で、愉快だ。 そういえば、南ボヘミアの雰囲気は、朝霧高原周辺のそれにどことなく似ている。あそことここは、どこかで繋がっているのかもしれない。または相似形、型が同じなのかも。…

より上位の個性を目指すなら

「手癖で弾く」とか「手癖で書く/描く」という言葉があるように、見ること聞くことにも無自覚に繰り返してしまう癖というのがある。考え方の癖や、感情の癖も同じだ。上位の意識を通すためには、この癖を自覚して取り除く必要がある。 個性にも層があり、より上位の個性を発揮したければ、機械的な癖やローカル性を自覚化して取り除く/脱する必要があるということだ。…

個を通って普遍へ至る

写真を撮っていてもそうだけれど、絵を描いてみると、いかに自分が見ていないかがよくわかる。見たつもりになっているだけで、自分の中で勝手に都合よく編集し、変えてしまっている。何かを本当に見るには実に時間がかかるし、自分の中で無自覚に繰り返している機械的な解釈を止める必要がある。 本当に見るというのが、自分の中の機械的な解釈を止めてそのものになるまで観ることだとすれば、それはつまり、見ている間に自我が死んで対象そのものとなり、対象を統合した新たな自我になることではないか。そうしてさらには全体としての”自分”のまなざしに至ることではないか。 見るだけでなく、聞くことも、食べることも、本当はそういうことだ。何かを取り込むたびにそれまでの自我は死に、集合体としての自我に変容する。 解釈や思い入れだけで作られたものがつまらないのは、そうした「本当に見る、聞く、食べる」プロセスを経ていないからだろう。小さな自我の中にあるものだけで作られるものには栄養がなくて、おいしくないのだ。 何事も個をとおって普遍へと至るようなものこそおもしろい。…

どの色も他のすべての色を含んでいる

パステル画を描きながら、目で見て感じている色の背後には、たくさんの見えない色が広がっていることに気づいた。そうして、ひとつの中には全体のあらゆる要素が含まれているということを思い出した。 どんなに掛け離れて見えるものの中にも、互いの要素が含まれている。分離して見えるものも、対立して見えるものも、すべて同じところにあり、どちらも等しく同じ要素を有している。人がそれを都合にあわせて分離し対立させているだけだ。…