すべて今ここにある夢
夜中にふと目が覚め、暗い部屋に横たわったままぼんやりしていると、記憶の中のさまざまな情景が走馬灯のように蘇っては流れていく。そうして過去に見た景色を辿るたびに、過去はすべて今にある、あるいは、すべての時はひとつのところにあることを実感する。 記憶の中の情景はどれもがいつも鮮明なまま、時を経ることがない。 すべてのあの場所、あの時が、今ここにある。 そして、それらを見ている「これ」は一体誰なのかと不思議に思う。…
夜中にふと目が覚め、暗い部屋に横たわったままぼんやりしていると、記憶の中のさまざまな情景が走馬灯のように蘇っては流れていく。そうして過去に見た景色を辿るたびに、過去はすべて今にある、あるいは、すべての時はひとつのところにあることを実感する。 記憶の中の情景はどれもがいつも鮮明なまま、時を経ることがない。 すべてのあの場所、あの時が、今ここにある。 そして、それらを見ている「これ」は一体誰なのかと不思議に思う。…
Praha Hlavní Nádraží, July 2021 6×4.5 Driftwood Pinhole Camera Fomapan 100…
Swans of the Vltava, July 2021 6×4.5 Driftwood Pinhole Camera Fomapan 100…
これは今朝見た夢のうちのひとつ。 大きな広場で屋外イベントが開催されていた。テントの中では人々が料理を作っていて、味付けされた肉や魚に葉野菜が重ねられたものがテーブルの上で山盛りになっていた。 すぐそばの地面で寝そべるさくらの身体の上に、取り除かれた葉野菜の外側でデコレーションがなされているのを見つけた。わたしが声をかけると、さくらは立ち上がった。何人かの人たちがさくらの写真を撮ってもいいかと尋ねてきたが、さくらは「この場所を離れよう」と言った。 わたしたちは別の場所へ向かって歩き始めた。ふと気づくと、わたしの身体はいつの間にか犬になっていて、さくらと並んで四つ足で歩いていた。少し離れたところにリカオンの親子がいて、こちらの様子を伺っているのが見えた。 そして、2匹の子リカオンたちが、興味深そうにゆっくりとわたしたちに近づいてきた。さくらは少し警戒していたが、リカオンたちからは攻撃的な気配は感じられなかった。やがて親リカオンも近づいてきて、わたしたちのにおいを嗅ぎ、友好的な態度を見せた。さくらも安心したようで、リラックスしていた。 わたしの身体はいつの間にか人間に戻っていた。…
Summer Sky over The Lake Jordán, August 2021 6×4.5 Driftwood Pinhole Camera Fomapan 100…
Summer View of the River Lužnice, June 2021 6×6 Driftwood Pinhole Camera Fomapan 100…
昨日までは頭の右側がじんわり痛んでいたが、今日はそれが左に移った。冬に向けて身体が閉じていくのを実感している。身体(骨盤そして頭蓋骨も)は左右同時には開閉しないため、右と左にずれが生じるのは当たり前で、そのズレがさまざまな不快を生じさせるという、片山洋次郎氏の著書に書かれていたことを思い出す。 > 片山洋次郎『整体。共鳴から始まる』(ちくま文庫) 人と人、人と動物、人と植物、人とモノの間にも何らかのつながり、連続性、浸透性を実感することがある。この互いに共鳴し合う作用、あるいは働き合う意思を「気」と呼ぶ。 元気があるなしは、周りの世界とのつながり具合に依存する。 pic.twitter.com/LtHJIERu67 [https://t.co/LtHJIERu67] — +M (@freakscafe) June 4, 2021 [https://twitter.com/freakscafe/status/1400649480253313027?ref_src=twsrc%5Etfw] 意識が気づいていようといまいと、…
「楽観でもなく、悲観でもなく、そこに在るもの、そこに起きていることを、ただ見て認める」 そこにある存在や事実と、それに対してどのように感じ思うかは、まったく別のことだ。都合によってそれらを混同するから、”問題”を作りつづけてしまう。 存在は存在のままに、事実は事実のままに、そこに在るものをただ認めること。そして、それらに対して生じる自らの感情や思いを、認め、引き受け、味わうこと。何かに対して生じる自らの感情や思いもまた、そこに在る事実であることに違いはない。 自分の外側に在るものも、自分の内側に在るものも、まずはそこにただ在ると認めること。そこに確かに在るものを、都合で無視したり、蓋をしたりしないこと。それは、自己同一化に気づき、そこから脱すること(=自己想起)でもある。 都合に同一化せず、感情や思いに同一化せず、ただ在るものを在ると見る。これには自覚的な訓練が必要で、そして、これは(この地上で肉体を持って)生きている限り続いていく。…