これもまた何かが見ている夢

この"わたし"もまた何かが見ている夢の登場人物に過ぎず、"わたし"が見ていると思っている現実とやらも何かが見ている夢の中のストーリーなのではないかと思うことがある。そうして、無限の入れ子になったり、内と外がくるりくるりとひっくり返ったりする。…

I am here to end the things.

「終わらせに来ました」 数週間前不意にやってきたこの短い言葉が、その後もふと頭に浮かぶことがある。思いもよらぬ言葉だったが、妙に腑に落ちた。 そうだ、終わらせるために来たんだ。 随分前のことだが、ある人に感謝の言葉を伝えたら「来世で返してくれたらいいですよ」と言われたので、「わたしはもう地球での来世はないんですよ」と真面目に答えたところ、キョトンとされたことを思い出した。…

純粋な喜びのための創作・創造を手段化しないこと

Vが焼いたパンや菓子の写真をSNSに投稿すると、「カフェやパン屋さんが開けるるよ」と言われることがある。そして、それがある種の賛辞であることは理解している。しかし、そのたびに、自分の好きな時に自分が食べたいものを自分で作って楽しむのと、仕事として他者に提供するために作るのとは、全く別のことだなと思う。 実際にVは「これが仕事になったら確実に嫌になる」と言っているし、わたしもきっとそうだろうと思う。写真を撮ることや文書を書くことと同じで、それが純粋な楽しみ、つまり趣味あるいは道楽だからいいのであって、不特定多数の他者に提供して商売にするという”手段”にしようとは思わない。つまり目的が違うのだ。 報酬や評価を得るためではなく、一人で夢中になれること、行為そのものになれるようなことをただただやっていると、無条件に満足していられる。それはある種の忘我であり、純粋に生きている瞬間だからだろう。道楽とはそういうことだ。 純粋な喜びとしての創作や創造=道楽がないと、生は貧しくなる。道楽を何か他の目的のための手段にはせず、道楽のままに守るのは、実はかなり重要なことだ(そして、この道楽は消費ではな…

雨上がりの湿地を裸足で歩く夢、どしゃ降りの中で鳩に話しかける夢

名前を思い出すにも時間がかかるほど古い知人が夢に登場した。既に亡くなっている父方の叔父や祖母もいた気がする。 雨が上がった後の湿地を裸足で歩いていた場面が強く印象に残っている。足に触れる水や泥や草の感触がリアルによみがえる。 雨が降る夜の街を自転車で移動していた場面も覚えている。乗っていたのは普通の自転車ではなく、わたしはかなり前傾姿勢になって高速で走っていた。途中、商店街のような場所や、デパートの中のような空間を通り抜けた。わたしは「随分夜遅くまで営業しているんだな」などと思っていた。 道路が川になりそうな程の土砂降りの雨の中、一羽の鳩がガラス張りの建物の前にぽつんと佇んでいるのが見えたので、近づいて「雨宿りをしなよ」と声をかけたら、鳩はハッと目が覚めたかのような顔をして、ぴょんぴょんと飛び跳ねて屋根の下へと移動していった。 また、別の夢あるいは別の場面では、わたしはやはり夜の街を歩いていた。そこは入り組んだ路地にさまざまな店舗が軒を連ねる古い街で、薬局や居酒屋の看板に明かりが灯っていたのを覚えている。わたしは、昔の実家に向かっていたような気がするが、そこは実際にはまったく知…