ミラクの夢

夢の中で歩きながらバイオリンのような弦楽器を奏でていた。周囲には似た楽器を手にした人たちが何人もいたが、どう鳴らせばいいか戸惑っている様子だった。わたしは好き勝手に楽器を振り回し、よく分からない方法で好きな楽曲を自由に奏でていた。とても楽しかったし、他の人たちも笑顔で楽しそうだった。 道を歩いていたはずが、いつの間にか水の中にいて、わたしは魚のようにすいすい泳いだ。やっぱりと楽しくて、周囲にいた人たちも楽しそうだった。 そこでぱっと目が覚めた。すると、視界の先に色を変えながら光る四角い枠のようなものが見えていた。その向こうには窓の外に夜空が見えていて、まるで宇宙空間へワープするゲートが開いたかのようだった。少し驚いて目を何度も閉じたり開いたりしているうちに、光のゲートは消えていった。 昨夜はまた眠りに就く前に「わたしがどこから来たのか、故郷の星を教えてほしい」と思っていた。そして、ミラク、トゥバンという2つの星の名が頭に浮かんだ後、すーっと眠りに落ちたのだった。…

自分とは自然と在るものではなく自ら意図して創るもの

何かに対する反応として生じる感情や思考は、ある種のプログラミングによる機械的反応のようなものであり、その多くは、たとえば親や教師や周囲の人々や社会など、自分ではないものを通して植え付けられたものだということを改めて考えていた。 「自分」あるいは「自分の感覚、感情」というものが当たり前のように在るように思いこんでいるけれど、実際にはそれが、自分ではないものによってプログラミングされた無自覚な機械的反応でしかないのだとしたら、では「自分」とはいったい何なのか?という問いが生じる。 「自分」とは、自ら意図して創り出していくしかないものではないか。何かに対する反応ではなく、何かとの境界線やそこに生じる摩擦や違和感でもない、何にも依らない「自分」というもの。それはやはり「意図」あるいは「意図を持つ」ということなのかもしれない。 そんなことを思っていたら、「ノストラダムスは『大半の人は運命に流される流木のようなものだ』『未来を選び、その方向に進んでいくことができるなら、流木のように生きる人ではなくなる』と言っていた」という話を思い出した。ノストラダムスが言うところの「流木」とは「ロボット」み…

これもまた何かが見ている夢

この"わたし"もまた何かが見ている夢の登場人物に過ぎず、"わたし"が見ていると思っている現実とやらも何かが見ている夢の中のストーリーなのではないかと思うことがある。そうして、無限の入れ子になったり、内と外がくるりくるりとひっくり返ったりする。…

I am here to end the things.

「終わらせに来ました」 数週間前不意にやってきたこの短い言葉が、その後もふと頭に浮かぶことがある。思いもよらぬ言葉だったが、妙に腑に落ちた。 そうだ、終わらせるために来たんだ。 随分前のことだが、ある人に感謝の言葉を伝えたら「来世で返してくれたらいいですよ」と言われたので、「わたしはもう地球での来世はないんですよ」と真面目に答えたところ、キョトンとされたことを思い出した。…

純粋な喜びのための創作・創造を手段化しないこと

Vが焼いたパンや菓子の写真をSNSに投稿すると、「カフェやパン屋さんが開けるるよ」と言われることがある。そして、それがある種の賛辞であることは理解している。しかし、そのたびに、自分の好きな時に自分が食べたいものを自分で作って楽しむのと、仕事として他者に提供するために作るのとは、全く別のことだなと思う。 実際にVは「これが仕事になったら確実に嫌になる」と言っているし、わたしもきっとそうだろうと思う。写真を撮ることや文書を書くことと同じで、それが純粋な楽しみ、つまり趣味あるいは道楽だからいいのであって、不特定多数の他者に提供して商売にするという”手段”にしようとは思わない。つまり目的が違うのだ。 報酬や評価を得るためではなく、一人で夢中になれること、行為そのものになれるようなことをただただやっていると、無条件に満足していられる。それはある種の忘我であり、純粋に生きている瞬間だからだろう。道楽とはそういうことだ。 純粋な喜びとしての創作や創造=道楽がないと、生は貧しくなる。道楽を何か他の目的のための手段にはせず、道楽のままに守るのは、実はかなり重要なことだ(そして、この道楽は消費ではな…