ぜんぶわたしだった
ぜんぶわたしだった あの人も あの犬も あの鳥も あの花も あの海も あの雲も あの風も あの星も ぜんぶがわたしだった ではいったい ほんとうのわたしなどというものはどこにあるのだ…
とっぷりと暮れた夜の空に まっくろな円が浮かんでいる ああ月だと思ったけれど よく見れば光の炎に包まれている どうやら皆既日食らしい その下にはまんまるの月が ぽっかりという風に浮かんでいる いよいよ見に行かねばと思い いそいそと靴を履く すっかり小さくなった犬が 足元を走り回っている おかあさんがそばにいたけれど 死んでしまって話ができない ひとりで外へ駆け出した 空気がみっちりつまっているから かきわけるようにゆっくり歩く まっくろな円は光をまとって 近づいたり遠ざかったりする 皆既日食と満月が並ぶなんて 月が二つになったのだろうか ここは別の惑星かもしれない ぐんと身体が縦に伸びる 強い力にひっぱられる ちぎれそうなほど細長くなって いつしか光の筋になる 皆既日食が近づいてくる 満月をひらりと飛び超えて まっくろな円に吸い込まれる 鍋が割れる音で目が覚めた…
気づいたら川沿いの道を歩いていた ゆったりと流れる大きな川は濁った青緑色 向こう岸には深緑の森が広がっている 誰もいない とても静かだ ぽつんと小さな魚屋があるのを見つけた 陽はまだ高いがもう店じまいをしている 発泡スチロールの上に置かれたホタテ貝 乳白色の立派な貝柱に引き寄せられる まだホタテ貝はありますかと尋ねた 水を撒いていた女性が無言でうなずく 六つ、七つ、いや、九つくださいとお願いする きっとそのまま刺身で食べるだろう 九つのホタテ貝をぶら下げて歩いた 視線の先でカーブを描く白いガードレール 川は無言でゆっくりのたうっている 誰にも会わない とても静かだ どこへ向かっているわけでもなかった 午後の空気が浅葱色に染まっていく 川を渡るという声が聞こえる 鉄塔がそびえる角を曲がることにする 気づいたら視点が上昇しはじめた 一瞬で高く昇って鳥のように世界を見下ろす どうやらカノープスに乗ったらしい 舟で九つのホタテ貝を食べよう…